日蓮正宗のススメ

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日蓮正宗の信仰を始めるのに、遅すぎるということはあるのでしょうか?

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死ぬまでに御授戒を受けることが出来たら、素晴らしいことなんです。

1 高齢者の御授戒・勧誡式も数多く行われています。

私の支部で実際にあった話。

支部の婦人部の方で、お姑さんに長年にわたり信心の妨害をされていた方がいました。

同居だったようで、下付された御本尊様を御安置できないようにされたり、あてつけがましく謗法の行事に参加したりと、散々嫌がらせを受けたんだそうです。

そのお姑さんが、いよいよ亡くなるという時になって、嫁いじめをしてきたことを後悔し、日蓮正宗の御本尊様に手を合わさせてほしいと言い出したんだとか。

婦人部の方は積年のいじめのことも忘れ、お姑さんに御授戒を受けるように勧め、御住職様に自宅まで来ていただいて、御授戒をしていただいたそうです。

亡くなる日まで、お姑さんは勤行・唱題し、お嫁さんに感謝の言葉を繰り返し、安祥として霊山に旅立たれたのです。御住職様も「きれいな相で旅立っていけたね」と、座談会の時仰っておりました。

2 恨みつらみの創価学会顕正会と違います。

私もそうですが、創価学会顕正会に長年在籍して、日蓮正宗猊下様や御僧侶を散々憎んできた人も、日蓮正宗に入信して境涯を開いている人は大勢います。

大聖人様の御書に「遅」の文字は一文字だけ。

有人云く四十余年未顕真実とは成仏の道ばかり未顕真実なり往生等は未顕真実にはあらず、又難じて云く四十余年が間の説の成仏を未顕真実と承伏せさせ給はば雙観経に云う不取正覚成仏已来凡歴十劫等の文は未顕真実と承伏せさせ給うか、若し爾らば四十余年の経経にして法蔵比丘の阿弥陀仏になり給はずば法蔵比丘の成仏すでに妄語なり、若し成仏妄語ならば何の仏か行者を迎え給うべきや、又かれ此の難を通して云ん四十余年が間は成仏はなし阿弥陀仏は今の成仏にはあらず過去の成仏なり等と云云、今難じて云く今日の四十余年の経経にして実の凡夫の成仏を許されずば過去遠遠劫の四十余年の権経にても成仏叶いがたきか、三世の諸仏の説法の儀式皆同きが故なり、或は云く不得疾成・無上菩提ととかるれば四十余年の経経にては疾くこそ仏にはならねどもく劫を経てはなるか、難じて云く次下の大荘厳菩薩等の領解に云く「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過るとも終に無上菩提を成ずることを得ず」等と云云、此の文の如くならば劫を経ても爾前の経計りにては成仏はかたきか。(顕謗法抄)

法華経以外の爾前のお経では、即身成仏できなくても歴劫修行で、遠い未来に成仏できますかという問いの意味で、「遅く劫を経て」と遅いの文字を使われています。「不可思議無量無辺阿僧祇劫を過るとも終に無上菩提を成ずることを得ず」ですから、永遠に成仏できませんというのが答えです。

3 宿業が消えてなくても成仏できるのでしょうか?

結論から言えば、できます。

法華を悟れる智者・死骨を供養せば生身即法身・是を即身といふ、さりぬる魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を変えて仏意と成す成仏是なり、即身の二字は色法・成仏の二字は心法・死人の色心を変えて無始の妙境・妙智と成す是れ則ち即身成仏なり、故に法華経に云く「所謂諸法如是相死人の身如是性同く心如是体同く色心等」云云、又云く「深く罪福の相に達して徧く十方を照したまう微妙の浄き法身・相を具せること三十二」等云云、上の二句は生身得忍・下の二句は即身成仏・即身成仏の手本は竜女是なり・生身得忍の手本は純陀是なり。(木絵二像開眼之事)

しかれば故聖霊・最後臨終に南無妙法蓮華経と・となへさせ給いしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給う、煩悩即菩提・生死即涅槃・即身成仏と申す法門なり、かかる人のえんの夫妻にならせ給へば又女人成仏も疑なかるべし、若し此の事虚事ならば釈迦・多宝・十方・分身の諸仏は妄語の人・大妄語の人・悪人なり(妙法尼御前御返事)

法華経の心は当位即妙・不改本位と申して罪業を捨てずして仏道を成ずるなり、天台の云く「他経は但善に記して悪に記せず今経は皆記す」等云云、妙楽の云く「唯円教の意は逆即是順なり自余の三教は逆順定まるが故に」等云云、爾前分分の得道有無の事之を記す可しと雖も名目を知る人に之を申すなり、然りと雖も大体之を教る弟子之れ有り此の輩等を召して粗之を聞くべし、其の時之を記し申す可し、恐恐謹言。(波木井三郎殿御返事)

妙法蓮華経の御本尊供養候いぬ、此の曼陀羅は文字は五字七字にて候へども三世の諸仏の御師一切の女人の成仏の印文なり、冥途にはともしびとなり死出の山にては良馬となり・天には日月の如し・地には須弥山の如し・生死海の船なり成仏得道の導師なり。(妙法曼陀羅供養事)

一、成仏の印文。
 「印」とは即ちこれ判なり。またこれ決定の義なり。世の証文の如し。即ち判形を以て用いて信と為すなり。譬えば伝国の玉璽の如し。命を天に受く。既に寿永く昌んなり。
 御書三十五三十四に「又閻魔王宮にしては何とか仰せあるべき、おこがましき事とはおぼすとも其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ乃至又日蓮が弟子となのるとも日蓮が判を持ざらん者をば御用いあるべからず」と。南無妙法蓮華経云云。
 諸門流の曼荼羅には日蓮聖人の判なし云云、云云。相伝あり。

当門流の弟子檀那は、御判慥にすわりたる手続の文書、本門の本尊を受持するが故に、決定して成仏すること疑なし。
 「我が滅度の後に於て(乃至)決定して疑い有ること無けん」とはこれなり。「応に斯の経を受持すべし」とは、応に本尊を受持すべしとなり。「是の人(乃至)決定」とは即ちこれ成仏の印文なり。蟆の事。
 牛頭決の初めに云く「所決の法門七百余科、皆是れ生死の野を越ゆる牢強の目足なり」。(妙法曼荼羅供養抄記) 

日蓮正宗の御授戒を受け、戒壇の大御本尊を受持すれば、成仏決定の証文をいただいたのであると、御本仏様が仰せであります。

また、葬儀や追善供養では、「法華を悟れる智者・死骨を供養せば生身即法身・是を即身といふ、さりぬる魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を変えて仏意と成す成仏是なり」と仰せです。「死骨を供養せば」とは、御遺体となってしまっていても、「さりぬる魂を取り返して死骨に入れて彼の魂を変えて仏意と成す」去ってしまった魂を成仏させてくれるとの仰せ。まさに死の成仏であり、葬儀は故人の折伏の場であります。

実際、悪臨終の相が善相に変わり、それを見た遺族が入信することもあるのです。いや、むしろ、日蓮正宗創価学会の時の学会員は、葬式自慢をしていたのです。「どうだい?これが成仏の相なんだよ」ってね。今は、創価と言えば密葬・家族葬が流行しているようですが、その理由は【お察しください】。

創価学会顕正会では、日蓮大聖人様の御書を自分たちに都合のいいように解釈しますので(学会読み・身延読みを超えたという噂も・浅井読みもあるようです)、御本仏が教導するためにあえて厳しく指導された文証を会員に突きつけ、組織のために利用としているだけにすぎません。

4 在在諸仏の土に、常に師と倶に生まれん

「我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ、忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事、是れ偏に過去の宿習なるか」(最蓮房御返事)

化城諭品第七に「在在諸仏の土に常に師と倶に生れん」とありまして、この御文は我々の成仏とはいかなることかを明示されたものと拝します。

日本人は成仏の意味を種々に解釈しておりまして、迹仏のような姿になるとか、極楽に往生するとか、千差万別の成仏をイメージしがちです。

実に無始曠劫の契約、常与師倶生の理ならば、日蓮今度成仏せんに貴辺豈相離れて悪趣に堕在したまふべきや。如来の記文・仏意の辺に於ては世出世に就きて更に妄語無し。然るに法華経には「我が滅後の後に於て応に斯の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」と。或は「速やかに為れ疾く無上仏道を得たり」等云云。此の記文虚しくして我等が成仏今度虚言ならば、諸仏の御舌もきれ、多宝の塔も破れ落ち、二仏並座は無間地獄の熱鉄の床となり、方・実・寂の三土は地・餓・畜の三道と変じ候べし。争でかさる事候べきや。あらたのもしやたのもしや。 

戒壇の大御本尊様を受持し、大聖人様の御内証たるお題目を御本尊様に唱えることが、無上仏道ですよと仰せなのですから、御授戒を受けて素直に信じ、日蓮正宗の修行を行ずるならば、

「即為疾得無上仏道(そくいしっとくむじょうぶつどう)」『法華経見宝塔品第十一』「速やかに為れ疾く無上仏道を得たり」

ですよと、太鼓判を押してくださっています。

成仏の姿とは、日蓮正宗の御本尊様に向かって、五座三座の勤行・唱題をする姿であり。来世もまた、戒壇の大御本尊様に会えますよということです。

創価学会員・顕正会員さんは、色々と組織のしがらみや、日蓮正宗への疑念などあるかもしれません。しかし、せっかく

我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ

という有り難い状況にあるわけですから、日蓮正宗の寺院を訪ね御授戒を授かってください。

遅すぎることはありませんが、早いにこしたことはありません。 

平成新編 日蓮大聖人御書(大石寺)

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  • 作者: 
  • 出版社/メーカー:日蓮出版
  • 発売日: 2018/10/13
  • メディア: 単行本
 
日寛上人御書文段

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六巻抄

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