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<公平な観察者>は進化そのもの

 

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心

 

 『道徳感情論』では、冤罪の話が出てきます。

そのころに有名な<カラス事件>というのがあって、息子を殺した罪で父親が車裂きの刑にされたうえに火あぶりとなったのです。ところが、ヴォルテールが名探偵として登場し、カラスさんが無実だったと証明したのでした。

無実の罪で死刑となった者は、残虐な刑罰よりも、汚名とともに己が記憶されることを怖れたとアダム・スミスは云います。死刑ほど深刻ではなくとも、誤解から非難を浴びるということは、私たちにもよくあることです。それを苦痛に感じるのは、<間接互恵性>を成り立たせる<評判>に喜びを感じるように進化した人間の本性ではあります。

しかし、スミスさんは、そこで世間に服従してしまうのは<弱い人>だと云います。世間の人々というのは間違えることも多いので、<賢明な人>は世間から受ける「賞賛や非難」そのものではなく、もっと本質的な「真に賞賛や非難に値するかどうか」を基準に行動する。

そのために、自己の利益だけではなく、他者の利益をも超越した、すべてを俯瞰して見る<公平な観察者>を自分の胸の内側に持つことが必要だと説くのです。

<共感>や<道徳感情>が過ちを犯すことがあるので、それを超越する方法を提示しているわけです。冤罪こそが<間接互恵性>を逆照射する鍵であることを、アダム・スミスは見抜いていたのでした。現在の進化心理学の専門家でも、冤罪こそがすべてを解き明す鍵だと気づいている者はいないというのに。

最近は『道徳感情論』がすこぶる流行っておりまして、解説書のたぐいが世界中で数多く出ていますが、この冤罪の話について取り上げているものはほとんどありません。

かろうじて冤罪に触れている数冊でも、それが『道徳感情論』の中心だと論じているものは皆無です。肝心なところが誰にも読み解かれていないのです。

スミスさんが死ぬ間際に膨大な原稿断片を焼いてしまったのは、結局『道徳感情論』さえあれば自分の思想は正しく後世に残るだろう、余計な物があるとその妨げになると考えたからだと思われます。

ところが、誰ひとりとして正しく受け止めることができなかったのです。あれだけ力を入れて書いている冤罪の話が目に入らない者がいるとは、スミスさんは想像もしなかったでしょう。皮肉というか、『道徳感情論』は期せずして、人間の認知バイアスの恐ろしさを体現する本ともなっているのです。

私はたまたま『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか』という冤罪についての本を執筆していて、なるほど冤罪が鍵なのかと思い至った次第です。それまで『道徳感情論』を読んでも、もうひとつ核心がつかめなくて困っていたのですが、冤罪を軸にして読むとすべてがすんなりと理解できるようになりました。それまで、あれだけはっきり書かれている冤罪の話に気づいていなかったわけです。

道徳感情はなぜ人を誤らせるのか ~冤罪、虐殺、正しい心

現実の冤罪が生み出される現場を見れば、さらによく判ります。無実の被疑者は、自分の証言がまったく信じてもらえないことにまず衝撃を受ける。一生掛けて築き上げた<評判>が通用しないと、自己が崩壊してしまうのです。

取調室で絶対的な孤独に追い込まれた被疑者は、目の前の取調官の<評判>を得るためなら、まったく身に覚えのないことでも、盗んだ殺したとお望みのままになんでもしゃべるようになります。

<間接互恵性>で生きている人間にとって、<自己>や<人格>なんてものは、自分の内面にあるわけじゃなく、周囲の人々の<評判>によって成り立っているということです。

取調官はそのことをよく知っていて、たとえ被疑者が<賢明な人>であっても、視野を狭めて俯瞰で見る<公平な観察者>を封じ、<弱い人>にしてしまうことが、取調べテクニックであると考えられています。

カラスの息子は自殺だったので殺人事件自体がなかったのですが、取調官も世間の人々も残虐な犯罪があったと信じています。ましてやもっと明確な殺しならなおさらに、<道徳感情>や<共感>を強く刺激されて、誰かを罰したいという欲求が抑えきれなくなっています。

そこで、因果推察の間違いという認知バイアスが起きてしまうのです。警察や検察には事件を解決することによって<評判>を得たいという欲求ももちろんありますが、無理に冤罪をでっち上げようなどとは考えておらず、無実の被疑者が真犯人だと本気で思って罰しようとするわけです。

これらはすべて、人間の本質である<道徳感情>に突き動かされて起きる作用なのです。

<公平な観察者>は進化そのもの
アダム・スミスは、みんな自分のことはよく知ってるが、他人のことは知らないという、情報の非対称性のためにこんな間違いが起きると考えていました。

そのために、自分の利害も他者の利害も超えた中立的な立場から公平無私な判断をできるだけではなく、すべての情報に通じた偉大な裁判官である<公平な観察者>を胸の中に宿すことが必要だと主張したのです。

しかし、そんな空想上の裁判官とは違って、生身の人間があらゆる情報に通じているわけはありません。ですから、<公平な観察者>は、自分が不完全であることを知っていて、観察や経験により、時間を掛けてゆっくりと完全に近づこうとするとスミスさんは仰います。

常に自分は間違っているかもしれないことを自覚し、できるだけ多くの情報を集めて、絶えず修正を加えていくことが重要だと、繰り返し繰り返し述べているのです。

ここから、<公平な観察者>は神でないことが判ります。少なくとも、唯一絶対的な道徳を押しつけるような神ではありません。アダム・スミスが説く<公平な観察者>は、進化そのものなのです。

進化とは、知能を高めるとかの、ある一定方向を目指すものではありません。それでは、恐竜やマンモスより知能が低いであろう、ミミズやオケラやアメンボが絶滅せずに生き残っている説明がつきません。

常に変化する環境に合わせて自分も変化し、生存率を高めるのが進化です。唯一絶対的な正しい行動を取ってるだけでは、環境の変化について行けずに滅んでしまいます。

これまでの生物は自然淘汰によって結果的に正しい行動が判ったわけですが、人間は因果推察能力が発達したため、環境の変化に合せた適切な行動をシミュレーションできるようになりました。

<公平な観察者>が未来の結果を検討して、現在の行動を選択することが可能となったのです。

しかし、スミスさんはさらにこの段階まで見越して警告を発しています。それが、この連載でもたびたび登場した<システムの人>だったのです。

なによりも危険な<システムの人>
道徳感情論』の最後の版を出す直前に、隣国でフランス革命が勃発しました。その革命を先導した頭のいい啓蒙主義者たちを、アダム・スミスは<システムの人>と呼んで非難したのです。

彼らは自分がすべてを見通せるほど賢く、正しい行動を知っていると思い込み、チェス盤の駒を自在に動かすが如き、華麗なる統治計画を立てて実行しようとしました。しかし、実際の人々はチェスの駒のようには動かず、現実から懸け離れたそんな計画は必ず破綻すると、スミスさんは書き残したのです。

そしてまさしく、すべての人を幸せにするはずの美しい計画は予言通りに崩壊し、フランス革命は何百万人もの人々を虐殺することになります。

スミスさんはその危険を察知したからこそ、<公平な観察者>は正しい行動を、つまり道徳を、最初から知っているわけではないことを強調したのでした。人間は間違えることをよく判っていたからです。

しかし、<公平な観察者>はたんなる理想論ではありません。世間の評判の奴隷となる<弱い人>でさえ、胸のうちに宿した<公平な観察者>を元に正しい判断をすることがたびたびあることを、その緻密な人間観察だけでスミスさんは見抜いていたのでした。 

道徳感情論 (日経BPクラシックス)

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