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創価ダメ出しさんに学ぶ:日蓮正宗の祈りとは?

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御本尊様の前で、あなたの心の空模様は?

僕がいつも勉強させてもらっている、創価ダメ出しさんが「祈り方」について、一連の記事を書いている。

(旧)創価学会員による創価ダメ出しブログ 続・祈り方

彼の教学力はどのように形成されたのか存じ上げないが、知識だけでなく芯からわかってないと書けない文章なんだ。

勝手に私淑してしまって、先方も迷惑だろうが、紹介せずにはいられない。

まずは、2016年の記事から。

祈り方

男子部時代から、そしていまでも
「どうやって祈ってるのか」とよく聞かれる。
先日祈祷抄について書いたので
その続で今日はどうやって祈っているか?
それを書いてみようと思う。
今日書くのは個人の祈り方なので
当然絶対でもないし、強制することじゃない
なので、軽~く読み流してくれればと思っている。
祈り方については、様々な人が様々に口にしている。
誓願の題目をあげる」
「具体的な目標を立てて唱題する」
「自分のことだけだなく周りのことも祈る」
などなど。
まぁ、人それぞれなのでどうこう言うつもりはない。
ただ、俺の実感としては
実際に本当に苦しい・辛い時に
そんな風に祈ったことはない。
ていうか、そんな風に祈る余裕などない。

人が一番真剣に祈るのは、
楽しい時ではなく、苦しく辛い時だと思う。
そんな時に、
広宣流布にお役に立ちます」とか
「具体的にこうなりたいです」とか
「私と同じ苦しんでいる人も救ってください」
なんてことを、いちいち祈りの中に入れられない。
そういったことを入れられるのは
まだ余裕がある時だ。
本当に苦しい時は、願うだけで誓いなんて立てられない。
本当に苦しい時は、具体的な目標すらわからない。
本当に苦しい時は、他人のことまで思いやる余裕はない。
そうじゃないだろうか?
だから、本当に苦しい時には
誓願もしなくていい。
目標なんてなくていい。
自分のことだけ祈っていればそれでいい。
俺はそう思っているし、そう祈っている。
だってそれが本心なのだから仕方ない。
ご本仏(御本尊)には全てお見通しなのだから
カッコつけても始まらない。

ご本仏(大御本尊)は、主・師・親の三徳具備でいらっしゃる。
主の徳とは、我等を守り、救う力。
師の徳とは、我等を導く力。
親の徳とは、慈愛の力。すなわち我等を決して見捨てない力。
だから俺は先の見えない苦しい時には
「助けてください」
「守ってください」
「(どうすればいいか)教えてください」
「見捨てないでください」
そう祈っている。
大御本尊は、決して見捨てず、守り、救い、教えてくれる。

そしてもうひとつ。
祈りがなかなか叶わないと
自分の信心が足りないのでないか?と悩む人も多い。
俺もかつてはそうだったが
そんなことで悩む必要ない。と言っておく。
先日の祈祷抄講義でもかいたが

◆行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし。

と言われているように
我らの信・行・学が拙く儚くとも必ず諸天・諸仏は我等を守る。
なぜなら、我等の祈りとは大聖人の祈りでもあるからだ。

日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし。(御義口伝巻下)

我々の苦しみはひとつ残らずご本仏の苦しみであり
我々の祈りもまたひとつ残らずご本仏の祈りなのだ。
我等の信心が弱く祈りが叶わないことがあっても
大聖人の祈りがかなわないはずない。
だから我らは自身の信心が弱いなどと心配する必要ない。
「私の信心はダメです。だから大聖人様のお力で何とかしてください」
そう祈ればいい。

そう、祈りはどんな風に祈ってもいい。
自分の信心に自信などなくてもいい。
おすがりだろうと、おねだりだろうと全然構わない。
重要なのは「祈り方」でなく
「祈る相手」だ。
主・師・親三徳具備のご本仏。
即ち、戒壇大御本尊に祈らなければ
どんな風に祈ってもダメだ。ってことだ。

■故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。(日寛上人・観心本尊文段上)

こんな素晴らしく、偉大な大御本尊を
信受しない学会員さん。
今日も叶わぬ祈りを仏壇の前でしていると思うと
可哀想というか・・なんというか・・・
早く目覚めて欲しいと願うばかりだ。

日蓮正宗に入る前の文章と推測されるが、素晴らしい文章だ。

続・祈り方

以前「祈り方」という記事を書いたが今回はその続きと言うか解説と言うかそんな感じの事を書いてみる。

▼過去記事は▼
祈り方

基本的に「祈り方」についての考えは以前記事に買いたことと全く変わっていない。創価活動家が異議を唱えてきたけれど祈りは好きに祈ればいい。他人の幸福も本気でそう思うならそう祈ればいいが、相手の幸福を祈らなければ折伏できないということはない。「折伏がしたい」とだけ祈っていても折伏はできる。つまり何が言いたいかと言えば「無理して思ってもいないことを祈る必要はない」し「無理して思ってもいないことを祈った」からといって自分の祈りが叶いやすくなったりしないということだ。そもそも祈っている相手はご本仏なのだから「無理してウソ松の祈り」をしたところで全てお見通しなのである。また「広宣流布しますから○○してください」なんて祈るのはご本仏と取引しているようで「いやらしい」そんなバーターしなくてもご本仏は祈りを必要な時に叶えてくれるから好きなような祈ればいいのである。悩んでいる時は悩んでいると。迷っている時は迷っているとその時の想いをご本仏にぶつけることが「本当の祈り」である。創価幹部・活動民たちは「目標を決めて具体的に祈れ」とよく指導するが、「目標が決まっていて」尚且つ「具体的な方法が分かっている」のなら、もうそれは悩みでも苦しみでもなんでもないからあとは「結果が出ますように」と祈る以外他に祈ることなどないのである。人の苦しみとか悩みというのは「迷っていて決められない」ところに原因がある。「目標」を定められるくらいなら誰も悩まないし苦しまない。それなのに「目標を決めて具体的に祈れ」なんて指導されてもそれが出来ればくろうしね~よって話なんだな。いいんだよ。何も決められなくても。迷い続けても。

衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり(一生成仏抄)
◆悟るを仏と云い之に迷うは衆生なり(三世諸仏総勘文教相廃立)


とのご聖訓にあるように「迷う」のが凡夫なのである。そして大聖人の仏法とは「即身成仏」なのだから凡夫のまま成仏できるんだよ。毎日迷って祈ってを繰り返しているうちに「迷っていた自分」のままで祈りが叶う。それが即身成仏ってヤツなんだから「迷いの自分」のままの姿で御本尊に向かうことが大切です。
そんな感じで「祈り方」に「これがいい」なんてものはない。ただし「これじゃダメ」っていうのはある。その「ダメ」な祈り方の最たるのが「創価の師弟の祈り」である。先月の聖教新聞に掲載されたいたが(以下太字は聖教新聞から引用)

創価の師弟の祈りは必ず成就
池田先生は本部幹部会のメッセージの中で、「よき師と・よき檀那(よき弟子)と・よき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり」(御書550ページ)との御文を通して、「妙法と共に広布の大誓願を貫く創価の師弟に、成就できない祈りはありません」と述べ、異体同心の団結でいよいよの大前進をと呼び掛けてくださいました。

こういうのを創価では「師弟誓願の題目」なんて呼んでいるが、こんなもん全くのデタラメです。そもそも御書中に「師弟誓願の題目」のことなどどこにも書いていない。大聖人が「祈り方」としてご指南されているのは「一心に御本尊を信じて題目をあげる」この一点だけなんだよ。「師弟の祈り」云々なんてことは直接的に言われたことない。大作が上記の「法華初心成仏抄」を引用しているがそもそもここでいう「よき師」とは大聖人のことであり創価大作の事ではない。しかもよき檀那の部分にわざわざ「よき弟子」などと加えている創価流である。この御文で言うなら大作は「よき師」ではなく「よき檀那」に分類されるのである(悪しき檀那だが)大聖人が言う所の師弟の祈りとは、

◆師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法吼とは師弟共に唱うる所の音声なり(御義口伝巻上)

というのが根本なのである。さてここで「師」というのは「弟子」に妙法を「授ける」人をのことをいうのである。「妙法を授ける人」というのは当然「妙法を所持している人」である。妙法を所持していなければ授けることはできないからね。妙法という法体を所持している人はご本仏以外は存在しないので「師」とは日蓮大聖人であり、大聖人の色心二法の体である戒壇大御本尊というのが根本なのである。もちろん日興上人以下の御歴代も大御本尊より法体の血脈を受けれられているので時の「師」ということになるが、根本の師は大御本尊(大聖人)なのである。つまり「師弟の祈り」というのは、大御本尊を信じて題目を上げるという事に尽きるわけだ。そうであるならば「祈りは必ず成就」する。しかし「創価の師弟」というのはイコール根本の師(大御本尊)を捨てることだから、創価の師弟の祈りは絶対に成就しない。
創価活動家が指導する「創価の師弟の祈り」なんていうものは本当にインチキなのだが、本当に悩んでいる人はコロッとそのインチキに騙される。「池田先生にお応えします」なんて馬鹿げた祈りをするわけ。で魔の通力で悩みが解決されたように思えると事もあろうか「大作」や「創価」に感謝し、創価大作に報恩感謝とか言い出すわけである。この「師弟誓願の祈り」という創価指導もまた創価のMCプログラムの重要なコンテンツなのである。こういうインチキ題目指導にはくれぐれも騙されないで欲しいと思う。
大作や創価の感謝なんてしなくても、毎日祈ることがコロコロ変わろうと、何も腹が決まらなくても、いまの自分の気持ちを素直にそのまま大御本尊に祈ればいいのです。私なんて毎日御本尊に愚痴ったり泣き言いってますよ。それだって祈りは叶いますから大丈夫です。
読んでいて励まされる。
祈りというもののエッセンスが凝集されている。

続々・祈り方

「祈り方」について書いたのであと少しだけ自分のことも含めて昔からよく質問されたことを書きたいと思う。今まで書いたとおり「祈り」とは「こうでなければいけない」という事はないの前提として、よく聞かれるのが「唱題時間」なんだけどこれもまた特に「これくらい唱題しなければいけない」ということも御書には特に書かれていない。唱題についてよく引用される御文として、

法華経の意をもしらず只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期一生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、答 えて云くしかるべきなり

という御文があるが生涯で一遍だけの題目でいいのは過去世に謗法がなかった人の話で末法の凡夫の我々はやはり日々の唱題行が大切である。唱題時間について以前も書いたが日達上人は「一遍でも少なからず、百万遍でも多からず」とご指南されている。勿論唱題は多いほどいいのだろうが唱題時間よりも題目をあげたい。という心が重要なのであって半強制的に「やったり」「やらされたり」の唱題では例え10時間唱題したところで意味がない。池田先生なんて「勤行・唱題0分」でも永遠の指導者だぞ(笑)まぁ時間ではないが「勤行・唱題0分」ではお話にならないが時間にとらわれず、題目あげたいときに、あげたいだけ唱題すればいいと思う。

あと唱題中に「雑念」がわいたり、逆に唱題に集中しすぎて何も祈っていないってこともあるだろうけど(俺は雑念ばかりだけど)それも気にすることはない。

◆祈祷に於ては顕祈顕応顕祈冥応冥祈冥応冥祈顕応の祈祷有りと雖も只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候 (道妙禅門御書)

と御聖訓にあるように、祈りには「顕祈顕応」」「顕祈冥応」「冥祈冥応」「冥祈顕応」の四種類ある。このうち「顕祈」というのは実際に祈っている事で「顕応」とはすぐに結果がでるころで「冥応」とはまだ結果は出ていないが将来必ず結果として顕れるという事。そして「冥祈」とは実際には祈っていない事である。信心をしていて「思ってもいなかった功徳がでた」という体験があると思うかこの「思ってもなかったこと」が「冥祈」だ。つまり何が言いたいかというと「雑念」があろうと「具体的に祈っていない」だろうと大御本尊は全てを見通し我々が具体的に祈ってないことも願いとして叶えてくれるというこだ。祈ってないことすら叶うのだから祈ったことが叶わないということはないんだね。だから何も祈らずだた題目をあげているだけでも功徳は顕れる。大御本尊を信じいれば「意」が唱題すれば「口」がご本尊の前で端座合掌すれば「身」がこうして身口意の三業で南無しているわけなので「雑念」だとうと「無念」だろうと顕われない功徳はないわけです。

「祈り方」とタイトルつけたけど、要は創価幹部のいうような「祈り方のテンプレ」なんてないということです。ただ一つだけ勤行で重要なことがあります。それは「御観念文だけは雑念なくしっかりと読む」ということです。ここが「祈り方」つまり勤行・唱題の時の重要ポイントです。がしかし・・創価には「御観念文」がないので結局どんな風に祈ろうと、どんなに長時間祈ろうと全て「カラ題目」になるんですね~。残念ですね創価の皆さんは(笑)
直達正観のことをわかりやすく説いてくれているんだと、私は解釈した。
御観念文の大事さは、法華講の先輩が言っていたことと重なる。
かつて先輩は、「仏法は御観念文を勉強して、その意味がわかれば教学がわかったのと同じことだ」と言っていたことがある。

勤行(読経)について。

「唱題」のことを書いたので今回は勤行について少し書いてみる。みんなそうだろうけど初めて勤行した時って経本見ながらたどたどしく読経してすごく時間がかかったよね。創価の会合で初めて勤行したときに周りの学会員さんが経本もみずに読経していて驚いたものです。早く自分もそんな風になりたいって思ったでしょ。経本読むより諳んじた方が圧倒的に速いしカッコいいもんね。たどたどしいながらも毎日勤行しているとすぐに方便品・自我偈は暗誦できるようになる。一方、寿量品の長行は覚えるまでやや時間がかかります。経本見ないで挑戦するといつまでたっても同じところを繰り返しちゃったりしていつまでたっても自我偈にたどりつかないってことは結構「あるある」だったりします。なんども「色香美味」ばかり読んで先に進まない(笑)それでも門前の小僧何とやらでいつの間にか経本をみなくても勤行が出来るようになるんですね。その頃には創価でも幹部といわれるようになっています。私も暗唱できるようになってからは経本を見ないで勤行をしていたのですがある日、御本尊の前で唱題するのが「読」で御本尊の前以外で唱題するのが「誦」という戸田会長の指導を聞いたときに御本尊の前で唱題するのが「読の題目」ならば御本尊の前でする勤行も「読の勤行」でないとおかしいのでは?とふと思ったんですよね。経本を読まないのは「誦の勤行」だから「誦の勤行」に「読の題目」って変な感じで「読の題目」には「読の勤行」じゃないかなと思ったわけです。御書を読んでみればやはり「法華経を読む」と書いてあるんですね。月水御書の勤行のご指南ともいえる一説にも、

◆されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ

と書いてあるしやっぱりちゃんと経本を読もうと思ってそれからは経本が手元にある時は経本を開いて読むようした。また会合にもそれまでは数珠しか持っていかなかったのだけど以降は経本も持参して、自分が導師のときはもちろんのことそうでない時も勤行の時はたとえ方便・自我偈だけでも経本を読むようにした。ある時男子部幹部にそのことを尋ねたら「どっちでもいい」との回答だったのでじゃぁ経本読むかと思ったわけです。それからしばらくして創価組織から追放されつつもまだ創価民だった頃に知り合った法華講員さんにその話をすると「法華講はみんな経本を読んでいる」とのこと。なんとなく「俺って正しいことしてるじゃん」ってその時は思いましたね(笑)で更に何年かして勧誡受けて今に至っているのだけど、私の菩提寺法華講員さんをみると「経本を読んいる」のは5~6割くらいです。以前知人の法華講員さんの話を聞いていたので私はてっきりほぼ100%経本を読んでいると思っていたのだけどそうでもなくて少しガッカリしています。少し前にある法華員さんが「私も早く勤行を諳んじられるように頑張りたい」と言っていたので、「経本は諳んじるのではなく読むものなので諳んじてはダメですよ」と言いました。正宗でも特にそうした決まりがないのかなぁと思っていたのだけど正宗の公式HPには、【 勤行の際には数珠を手にかけ経本を見て一字一句正確に読みます】と書いてあるのでやはり経本を見て読むというのが正式なんでしょうね。法華講員とはいえキチンとした勤行をしないと創価や顕正に嗤われちゃいますね。そもそもご住職ご自身が勤行の際には経本をみて読んでいるのですから「師弟相対」の信心をいうのであればご住職同様に経本を読むのが筋目です。なので経本を諳んじるのは法華講員として気を付けて慎みたいと思います。経本を読んでいるとちょいちょい思い出すのが、

◆仏前に詣でて法華経を読み奉り候いなば御経の文字は六万九千三百八十四字一一の文字は皆金色の仏なり(単衣抄)
◆文字変じて又仏の御意となる、されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり(木絵二像開眼之事)


これらの御文です。(他にも似たような御文もあります)これらのご聖訓を思いながら勤行をしていると、経本に書かれている法華経のひと文字ひと文字がご本仏である御本尊から使わされた迹仏・諸天善神のように思えてくるのです。経本を読むことにによって諸天善神一人ひとりの名前を呼んでいる気持ちになりそれらの諸天善神全員が自分を守り助け導いていく気持ちになるのと同時に、自分のなかで大聖人様の弟子として地涌の菩薩としての自覚や決意みたいなものが生まれちゃったりします。「誦の勤行」ではあまり感じなった感覚です。やはり勤行はキチンとやるにこしたことはありませんね。諳んじたからといって「朝の勤行0分」で出来るの人は世界でただ一人「永遠の指導者」であり「人類の師匠」である「あの人」しかいません(笑)ボクのような荒凡夫は多少時間がかかってもしっかり経本を見て読んで勤行したいと思います。
私も過去記事で、自我偈の文字が仏と変じて、父母に孝養を果たしてくれる話をご紹介したことがある。興味があれば読んでほしい。 

nichirendaihonin.hatenablog.com

勤行について詳しく知りたい方には 

勤行―その仕方と観念文の意義 (信心修行の基本)

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が、お勧め。

お題目の意義については日顕上人様の 

総本山第六十七世日顕上人猊下御教示 すべては唱題から―唱題の功徳と意義六十一カ条
 

が分かりやすい。

深く勉強して極めたいという人には、  

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妙法七字拝仰 下巻

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がよろしいかと。

法華講の先輩には、3回は読めと言われた。