仁王経に云く「人仏教を壊らば復た孝子無く六親不和にして天竜も祐けず疾疫悪鬼日に来つて侵害し災怪首尾し連禍縦横し死して地獄・餓鬼・畜生に入らん、若し出て人と為らば兵奴の果報ならん、響の如く影の如く人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。(立正安国論)
華厳経に云く「恩を知らざる者は多く横死に遭う」等云云、観仏相海経に云く「是れ阿鼻の因なり」等云云(四条金吾釈迦仏供養事)
一生補処の菩薩は中夭なし・聖人は横死せずと申す(神国王御書)
一閻浮提の人人・各各・甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕ること雨のごとく・しげからん時・此の五字の大曼荼羅(日蓮正宗戒壇大御本尊)を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべし(新尼御前御返事)
兵奴の果報とは、奴隷のような扱いを受ける兵隊になること。横死の果報とは、事故や殺人、戦禍によって突如として非業の死を遂げることである。
今話題の新書、独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 (岩波新書)では、人類史上最悪の絶滅戦争の詳細が語られている。独ソ合わせて3000万の命が失われたという。
私たちの祖先が経験した、日中戦争~太平洋戦争の比ではない。
生まれ合わせというのだろうか、無間地獄の業果によって大戦争の悲惨が生じることは、立正安国論に詳しい。
日本人にはなじみのない独ソ戦ではあるが、イデオロギー戦争という米中戦争を予想させうる、絶滅戦争の恐怖が近づいてくることを予感させる昨今、必読の書ではないかと思う。
人類史上全ての戦争の中で最大の死者数を計上した独ソ戦。血で血を洗う戦場ではいったい何が起きていたのか。これまで日本で語られることのなかった絶滅戦争の惨禍を、最新研究をもとに振り返る。
わが子にわが子を食わせる
1941年、ドイツ軍に包囲されたソ連第2の都市・レニングラードの街角は死体で溢れていた。
ヒトラーは、「革命の聖地」であるレニングラードを軍隊で奪取するのではなく、包囲したうえで飢餓地獄に陥れ、市民もろとも守備隊を全滅させることを狙ったのだ。
冬が到来すると、死体から人肉を食らう凄惨なありさまとなった。ソ連の内務人民委員部(秘密警察)の文書には以下のような記録まで残っている。
「ある母親は、上の子どもたちを生き延びさせるために、末の赤ん坊を殺して食べさせた」
日本では第二次世界大戦といえば太平洋戦争がイメージされやすく、これまで独ソ戦についてはほとんど語られてこなかった。
しかし、7月に刊行された『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)がベストセラーとなり、発売わずか11日で4刷といま大きな話題を呼んでいる。著者で、防衛省防衛研究所講師、陸上自衛隊幹部学校講師などを歴任した現代史家の大木毅氏が語る。
「独ソ戦は歴史上稀に見る残虐な戦争でした。その凄惨さは数字を見るだけでわかります。ソ連は'39年の段階で1億8879万3000人の人口を有していましたが、第二次世界大戦で戦闘員、民間人合わせて2700万人が失われたとされています。
一方ドイツも、'39年の総人口6930万人のうち、戦闘員が最大531万8000人、民間人も最大300万人を失ったとされています」(以下「」内は大木氏の発言)
'41年、ナチス・ドイツの国防軍が、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻して始まった独ソ戦では、北はフィンランドから、南はコーカサスまでほぼ3000㎞にわたる戦線で、1000万の大軍が激突。少なく見積もっても3000万人以上が命を落とした。
世界史的に見れば、第二次世界大戦の主戦場は独ソ戦だったとも言いうるのだ。
当時、ドイツではヒトラーがナチスによる一党独裁体制を確立していた。一方で、ソ連ではスターリンが自身を頂点とした強力なテロ支配体制(秘密警察による支配)を敷いていた。
稀代の独裁者同士による戦いの現場でいったい何が起きていたのか。大木氏とともに独ソ戦の歴史を振り返る。
まず時計の針を戦前の'37年まで巻き戻そう。この時ソ連内ですでに悲劇は始まっていた。スターリンによる大粛清である。
「レーニンが没した後、スターリンの権力基盤はなおも不安定でした。『隙あらば反逆に踏み切り、自分を追い落とそうとしている者が多数いる』、強迫観念に囚われたスターリンは秘密警察を動員し、ソ連の指導者たちを逮捕、処刑させたのです」
'37年から'38年にわたって、3万4301人の将校が逮捕、もしくは追放され、そのうち2万2705人が銃殺されるか、行方不明になっている。これだけ見ても粛清がいかに苛烈なものであったかがわかるだろう。
結局'41年6月にドイツ軍に攻め込まれたときには、ソ連軍の指揮官は素人ばかりという有り様。まともな戦略も立てられず、ただ反撃するべしという原則のみが習い性になっていた。
兵士の中には、無茶な命令をする指揮官を殺そうとしたり、逃亡したりする者が続出した。兵器を持っていても、有能な指揮官がいなければ元も子もない。
降伏しても殺される
開戦当初、ソ連軍は当然のように大敗を喫した。7月初旬までにドイツ軍に捕虜にされたソ連兵は32万人にも及んだという。捕虜になったソ連兵にはさらなる地獄が待ち構えていた。
「ヒトラーは独ソ戦を世界観戦争であると規定しました。すなわち『人種的に優れたゲルマン民族が劣等人種スラヴ人を奴隷化し支配する』という世界観です。そのためソ連兵捕虜は人間として扱ってもらえなかった。
食料も充分に配給されず、ろくに暖房もない収容所にすし詰めにされ、重労働に駆り出された結果、大量の兵士たちが飢餓や凍傷、伝染病で死んでいきました。570万人のソ連軍捕虜のうち、300万人が死亡したと言われています」

一度捕虜にされてしまえば死亡率は53%。降伏したところで、命の保証はなかったのである。
ヒトラーやドイツ軍のこうした残虐行為はもちろん占領下の一般市民にも向けられていく。ナチスは占領したソ連領から食料を収奪し、現地住民を飢え死にさせてでも、ドイツ国民、ドイツ軍の将兵に充分な食料を与える計画を立てたのだ。
「通称『飢餓計画』と呼ばれる構想です。計画を立てた食料農業省次官、ヘルベルト・バッケのロシア人に対する評価は非情なもので、こう言い放っています。
『ロシア人は、何世紀もの間、貧困、飢え、節約に耐えてきている。その胃袋は伸縮自在なのだから、間違った同情は不要だ』」
ドイツ軍に食料を奪われた占領下の住民に残されたのは、わずかなパンとジャガイモのみであった。ソ連の厳しい冬を越すことができず、多くの餓死者が出た。
死ぬまで行進
この独ソ戦では、無意味としか思えない民間人の虐殺まで繰り広げられた。虐殺を担当したのは、ナチス・ドイツの有する「出動部隊」(アインザッツゲルッペ)である。
ドイツ軍が制圧した領地に入り込み、教師や聖職者、貴族、将校、ユダヤ人などを、占領軍に反抗するかもしれないという理由で殺害してまわった。
「出動部隊はなんの罪もない住民たちを、森や野原に追いたて、まとめて銃殺しました。出動部隊の手にかかった人々の数は少なくとも90万人と推定されています」
出動部隊は殺害の効率化を進めるため、射殺から毒ガスの使用へと方針を切り替えた。アウシュビッツ強制収容所のガス室の最初の犠牲となったのはユダヤ人ではなくソ連軍捕虜600人だったといわれる。
開戦当初は敗北を喫したソ連軍であったが、冬が到来すると極寒を衝いて反撃を始め、戦況は泥沼化していく。
「ソ連軍の反撃に危機感を抱いたヒトラーは『総統の許可なくして、一歩たりとも退却してはならない』という仮借ない命令をドイツ軍に下しました。
一方でスターリンもソ連軍の主力部隊の背後に、脱走兵を射殺する『阻止部隊』を配置し、前線部隊の退却を許しませんでした」

捕虜になっても逃亡しても殺されるのだと知った両軍の兵士たちは、どんなに絶望的な状況に追い込まれようとも徹底抗戦し、戦場はまさに地獄の様相を呈していた。
戦闘が長期化するに従い、膨大な予備兵力を持つソ連が徐々に攻勢を強めるようになった。戦地に増援を次々と送り出し、砲兵や航空機によって敵の最前線から後方までを同時に制圧する「縦深戦」を展開し、一気に形勢を逆転したのだ。
形勢の逆転によって始まったのが、ソ連軍による報復だ。特に捕虜となったドイツ兵の扱いは常軌を逸しており、食料も与えぬまま、死ぬまで徒歩で長距離行軍させるなど、非人道的な蛮行が繰り返された。
「ドイツ兵捕虜は、収容所に入ってからも、破壊された建物や地下壕、天幕などで寝泊まりする状態で、重労働を強いられました。食料は水でカサ増ししたパンと、ジャガイモの皮や魚の頭、犬や猫の肉などしか与えられなかった。
夏季には野草摘みに駆り出され、それでスープを作ったものの、毒草であったため、多くの死者を出したという例もあります」
ソ連の捕虜収容所で生き残ったドイツ兵士はたったの5%に過ぎなかったという。
またドイツ兵だけでなく、ソ連国内のドイツ系住民にも、悲劇が降りかかった。
「ソ連にはヴォルガ・ドイツ人をはじめとする多数のドイツ系住民がいました。スターリンは彼らに対し、シベリア、カザフスタン、ウズベキスタンへの強制移住を命じたのです」
70万人とも120万人ともいわれる人々が、家畜運搬用の貨車や徒歩での大移動を強制され、飢えや渇き、過剰に貨車に詰め込まれたことによる酸欠で死亡した。
前線のソ連軍将兵の蛮行も、その残虐さに引けを取るものではなかった。ソ連軍将兵は敵意と復讐心のままに、略奪や暴行を繰り広げたのである。
「ソ連軍の政治教育機関は、そうした行為を抑制するどころか、むしろ煽りました。ソ連軍機関紙『赤い星』にはこのように書かれています。
『もし、あなたがドイツ人一人を殺したら、つぎの一人を殺せ。ドイツ人の死体に勝る楽しみはないのだ』」
やられたらやり返す、そこにあるのは、剥き出しの憎悪だ。ソ連兵青年将校が見た戦場の証言を聞こう。
「女たち、母親やその子たちが、道路の左右に横たわっていた。それぞれの前に、ズボンを下げた兵隊の群れが騒々しく立っていた」「血を流し、意識を失った女たちを一ヵ所に寄せ集めた。そして、わが兵士たちは、子を守ろうとする女たちを撃ち殺した」
戦争はここまで人間を残虐にさせるのだ。
国民が共犯者
最終的に、'45年4月26日にソ連軍がベルリン市内に突入、ベルリンのドイツ軍守備隊は5月2日に降伏した。それに先立つ4月30日、ヒトラーは総統地下壕で自殺していた。その遺書には、なお闘争を継続せよとの訴えが記されていた。
こうして独ソ戦は幕を閉じる。なぜこのような凄惨な戦争が繰り広げられたのか。一つにはドイツとソ連双方が「通常戦争」を放棄したことが原因に挙げられる。
「通常の戦争であれば、戦争の目的を達成したら、講和を結んで終結させます。しかし、独ソ戦においては、両国ともが、互いを滅ぼされるべき敵とみなすイデオロギーを掲げていたために、相手を徹底的に殲滅するまで戦争を終わらせることができなかったのです」
そして、何より大きな要因はこうしたイデオロギーに国民が共犯者として同調したことが挙げられるだろう。
「ドイツ人は、戦時下なのに、自分たちには食料が配給される、この食料はどこから来るのか、ということはみんな薄々わかっていたわけです。
わかっていながらナチスを支持していた。ソ連にしても、『侵略者』と戦おうと自ら志願した者が多数いた。聖戦意識が強かったのです」
ドイツとソ連が国ぐるみ、国民総出で殺し合った皆殺しの戦争は、人間とは何かという問いを70年後の現在に投げかけている。
「週刊現代」2019年8月10日・17日合併号より

我が闘争 上巻 Mein Kampf 1.band 東亜研究所訳 本邦初の全訳の復刻版 呉PASS復刻選書38
- 作者:Adolf Hitler,アドルフ・ヒトラー,内閣企画院 (財)東亜研究所
- 出版社/メーカー: 呉PASS出版
- 発売日: 2018
- メディア: 単行本(ソフトカバー)

我が闘争 下巻 Mein Kampf 2.band 東亜研究所訳 本邦初の全訳の復刻版 呉PASS復刻選書39
- 作者:アドルフ・ヒトラー,Adolf Hitler,内閣企画院 (財)東亜研究所
- 出版社/メーカー: 呉PASS出版
- 発売日: 2018
- メディア: 単行本(ソフトカバー)