依義判文と依文判義:謗法とは依文判義の洗脳
依義判文抄 第三
明者は其の理を貴び闇者は其の文を守る。苟くも糟糠を執し橋を問う、何の益かある。而も亦謂える有り、文証無きは悉く是れ邪偽なりと、縦い等覚の大士法を説くと雖も経を手に把らずんば之を用ゆべからざるなり。故に開山上人の口決(上行所伝三大秘法口決)に慣って謹んで三大秘法の明文を考えて文底秘沈の誠証に擬し以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏に広宣流布の為なり、必ず其の近きを以て之を忽せにすべからず云云。
せっかく、末法の御本仏日蓮大聖人の仏法に出逢いながら、昭和・平成の時代に2000万人の人が謗法に堕してしまいました。
なぜ、そんなことになってしまったのでしょうか?
第一の原因は、「依法不依人」の戒めを破ってしまったからです。「涅槃(ねはん)経に云はく『法に依って人に依らざれ』云云。痛ましいかな悲しいかな、末代の学者仏法を習学して還(かえ)って仏法を滅す」(御書1420)と仰せであり『頼基陳状』に、「誰人か時の代にあをがるヽ人師等をば疑ひ候べき。但し涅槃経に仏最後の御遺言として『法に依って人に依らざれ』と見えて候。人師にあやま(誤)りあらば経に依れと仏は説かれて候。御辺はよもあやま(誤)りましまさじと申され候」(御書1128)と「依法不依人」について御教示であります。仏法を信じ修行していくには、正しい法に依って、法を無視した人の言葉に依ってはいけないということです。日蓮正宗以外は、法の道理を無視し、人師が自分勝手に解釈した教義をもとに成り立っています。釈尊が説かれた経文から逸脱しているのが現実です。
ここで言う「法」とは何でしょうか?
目に見えない架空の「法則」のような存在でしょうか?
違います。
「法」には「体」が具わっています。「法体」とお呼びします。戒壇の大御本尊様のことです。
当体義抄文段 十六
凡(およ)そ所属の法体は、三大秘法総在の本地難思の境智冥合、本有無作の当体蓮華なり
一 問う次上に引く所の等文。此の下は次に別付の文の深旨を明かす、亦三。初めに略して示し、次に「問う其の深意」の下は広く明かし、三に「故に末法今時に於て」の下は結歎。
一 結要の五字の当体を付属すと説きたまえる文なる故なり。
「結要の五字の当体」とは、即ち是れ所属の法体なり。「付属説文」の四字は、即ち是れ能付の文なり。下も去って之に准ず。
一 我が昔の所願の如き等文。
云う所の「普」とは、玄文第三の意は、一には寂滅道場、二には大通仏、三には本果、四には本行菩薩道なり。
若し当流の意は、是れ猶近し、久遠元初の御誓願なり。在世の脱益は一往の御願満足なり。後の五百歳の付嘱を説いて、真実の御願満足なり。
一 当体蓮華の誠証は此の文なり文。
所属の法体たる当体蓮華は財宝の如し、能付の是の文は譲状の如し。故に爾云うなり。
外十六に云く「寿量品に本因本果の蓮華の二字を説いて本化に付属す」等云云。
此の下は三に結歎。凡そ所属の法体は、三大秘法総在の本地難思の境智冥合、本有無作の当体蓮華なり。故に三箇の「真実」、二箇の「題目」、恐らくは意あらんか。
一 問う当流の法門の意は等文。
此の下は次に正しく文底の本地所証を明かす、亦二と為す。初めに正しく本有無作の当体蓮華の証文を明かし、次に「問う何を以て(乃至)知ることを得るや」の下は異文を会す。
此の文は、正しく当体蓮華の証文を明かすなり。
問う、何ぞ迹中所説の題目を引いて、本地所証の当体蓮華を証するや。
答う、天台云く「此の妙法蓮華経とは本地甚深の奧蔵なり」等。妙楽云く「迹中に説くと雖も、功を推するに在ること有り。故に本地と云う」云云。若し爾らば、本果所証を以て本地所証の当体の蓮華と名づくるや。
答う、本果に証すと雖も、「功を推するに在ること有り」の故に、久遠名字の所証を以て、本地所証の当体の蓮華と名づくるなり。
宗祖云く「妙法蓮華経の五字は経文に非ず、其の義に非ず、唯一部の意なるのみ」等云云。当に知るべし、今日迹中の題目は文の妙法蓮華なり。本果の所証は義の妙法蓮華なり。久遠名字の妙法は意の妙法蓮華なり。今、文の妙法蓮華を引いて意の妙法蓮華を証するなり。亦復当に知るべし、今日迹中の題名は久遠名字の妙法の朽木書なり。是の故に、引いて証文とするなり。
問う、既に「一部の意」と云う。豈本迹あらんや。
答う、今日迹中の妙法は是れ迹、本果所証の妙法は是れ本なり。本果所証は仍迹なり。久遠名字の所証は本なり。豈本迹勝劣分明に非ずや。
問う、本迹決疑上十六に云く「本迹二門の妙法蓮華経は但一偏なり。処々の御釈に『二十八品の肝心の妙法蓮華経』と判じ給うは是れなり。故に妙法蓮華経と云うは、即ち本迹一致の法体なり」云云。此の義は如何。
答う、此れは是れ名同義異を知らざる故なり。且く当抄所引の大強精進経の「衆生と如来と同共一法身にして清浄妙無比なるを妙法蓮華経と称す」等云云。日澄、若し此の文を見れば、応に権迹一致と云うべきのみ。彼等、尚迹中に迷えり。況や種脱の本迹に於てをや云云。
一 問う、何を以て品品の題目は当体蓮華なりと云う事を知ることを得るや文。
是の下は違文を会す、亦三。初めに合説の意を以て譬喩の辺を会し、次に「但当体・譬喩」の下は法譬体一を明かす云云。
一 但当体・譬喩等文。
此の下は合説の義を明かす、亦三。初めに標、次に「所謂法華論」の下は釈、三に「此等の論文」の下は結。
一 妙法蓮華とは二種の義有り文。
一義に云く、華開の義は、直ちに当体の義に約す。出水の義は、譬喩を兼ぬる故に合説の義と為すと云云。一義に云く、出水・華開の標文は譬喩を兼ぬ。自余の釈相は、当体に約する故に合説の意なりと云云。
意に云く諸の衆生、法華経に於て信を生ずること能わざるが故に、如来の清浄妙法身を開示したまう時諸の衆生、能く信心を生じて妙因を開発す。妙因開発は即ち当体蓮華の義なり云云。
一 此等の論文等文。
是の下は三に文を結するなり。法譬体一の下を見るべし。
法体を受持されているのが、御法主上人猊下様であります。日蓮正宗以外には、「法体」たる戒壇の大御本尊様は存在いたしません。
創価・顕正の輩がどのように主張しようとも、それは、御書という文証を根拠にした、依文判義の邪義に他なりません。御書の文証は、大聖人様が御自身の修行の「時」と、法を説く相手の「機」に鑑みて説かれた、法門・法理・対機説法であるのです。
全体観としての相伝ではありません。御書の好きな部分を取り入れれば、題目が本尊であったり、釈迦仏造立が正しかったり、支離滅裂な法門を大聖人様が説かれたことになります。現に、他門日蓮宗諸派では、好き勝手な異流儀を立てています。これらは全て、謗法堕獄の「仏をさげ経を下す此皆本尊に迷えり」(開目抄下)の姿であります。「本尊とは勝れたるを用うべし」(本尊問答抄)でなければなりません。
いくら、南無妙法蓮華経のお題目を唱えていようとも、「法体」を受持出来ていないならば、そこに功徳も血脈も湧き起っておこないのです。大聖人様の御書を比較対照して、依義判文できるのは日蓮正宗の猊下様だけであります。
その書籍を読んだとしても、信心の血脈は信徒として認証された者だけに通ってきます。御書根本では信心は成就できません。依文判義の謗法にならぬよう、日蓮正宗への帰依をお勧めいたします。
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