日蓮正宗のススメ

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質問集: 信心している人の欠点や不始末は法をさげることになるのか。

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法を下げる、ということについてお伺いします。信心している人が、貧乏や病気で苦しんでいたり、あるいは、人に迷惑をかけたりして、それによって、周囲の人が仏法を疑うようになった場合法を下げることになると思います。それは仏法上の罪になると思うのですが。 

我々は皆、過去からの罪障を抱えて入信しています。 

ゼロからのスタートではなく、マイナスからのスタートであり、その状態から罪障消滅を願い、幸せになることを願って仏道修行に励んでいるわけです。 

その仏道修行の途上においては、当然、足りない部分、至らない部分、まだまだ不幸が解決されていない部分というのは、必ずあるはずです。 

そして、まだ経済苦が解決されていない、病気が完治していない、性格が良くなっていない等ということをもって、周囲の人々から「信心しているくせに何だ」という目で見られることもあるかと思います。 

では、そのように見られることが、法を下げることになるか、ということですが、けっしてそうはなりません。 

昔、創価学会員の間では、生活保護を受けたら法を下げるから受けてはいけない、と、いうことが言われていたそうです。それは間違いです。 

そのようなことで、法は下がりません。 

生活保護というのは、税金を払っている国民としての権利です。 

思いのかけないことに遭遇して生活が立ち行かなくなったときに、国からの最低限度の文化的生活をするための保護を受けるということは、税金を払っている国民の権利なのですから、それを受けたからといって、何ら恥じる必要もないし、片身の狭い思いをする必要もないのです。 

ところが、創価学会の中では、それは法を下げる、と、幹部から切って捨てるように言われたそうです。 

それは、大聖人の仏法がわかっておらず、仏法の功徳についてのとらえかたが間違っている、としかいいようがありません。 

底の浅い話ですが、何故、池田大作さんが素晴らしいのか、という話も同じ間違いから来ています。 

かつて学会員の間では、

「センセーはピアノを弾けば名ピアニスト、バットを持たせればホームランをかっ飛ばし、筆を持たせればたいへんな達者で、スゴイ。やっぱり仏様だ」・・(笑い) 

等、と言われていました。 

学会の宣伝によれば、池田さんという人は、どうも、入信する前からそうなのです。 

はじめて戸田会長と会った瞬間に、「私のはこの人の後継者になる」、とハッキリわかった・・とか、新来者として座談会に出た場所で、「我、地より涌(わ)き出(い)でんとするか」・・と、地涌(じゆ)の菩薩のような詩を述べた・・とか、最初からそういう人なのです・・(笑い) 

私は、初信の時に、そういう話を聞いて、この池田会長という人は、、自分とはかけ離れすぎていて、とてもお手本にはならない、と思いました。 

できの悪い自分にとっては、同じように出来の悪かった人が、苦しんだり悲しんだりしながらも、この信心に励んで立派になっていった、という実証こそがお手本になるし、ありがたいわけです。 

しかし、池田さんという人はそうではなく、はじめからスーパーマンなんです。

もちろん、嘘とトリックですけど(大笑い)。 

そういうことを聞いていて、私は、これは別世界の話で、自分には何の役にも立たない、と思ったものです。 

要するに、創価学会員にとっての「仏法の功徳」や「幸せになる」ということは、そうした理想像のような人間になることであり、それに準じた姿になることが信心の実証だと思い込まされていたのです。 

そして、周囲の人々に、そのできあがった立派な姿を見せてかなくてはならない、と思ってきたのです。ですが、これは絶対に間違っています。

 我々は皆、謗法(ほうぼう)の罪障を抱えた末法の凡夫なのですから、病気にもなれば、悩みもあり、苦しみもあり、悲しみもあり、いろいろな煩悩にさいなまれて生きているのです。 

そういう中で、信心に励んで功徳を積んでいくことで、少しずつ六根清浄(ろっこんしょうじょう)になっていき、一つずつ罪障が消滅されて、徐々に、一生をかけて境涯が開けていくのです。 

その過程においては、業によって悪いクセがでたり、病気が起こってくる、ということもあるかもしれません。それを、法をさげる、と言ったら、これは本当に無慈悲なことだと思います。 

しばしば耳にすることとして、「信心しているのに、まだ性格が直ってない」とか、「信心しているくせに、まだ、あんな病気を抱えている」ということがあると思います。 

でも、たとえば、その人が入信して五年が経っていたとして、では、五年前に入信する以前はどうだったのか、入信前と今と比べるとどうなのか、ということを見てみると、格段に違いがあるのです。 

むろん、これは単に入信しただけでなく、本人が百日・一年・七年としっかり信心を続けてくる中で、悪人は人格者に変わっていくるし、病弱だった人が健康体に変わってきている等の事実が、必ずあるはずです。 

その人に、まだまだ欠けているところがあったとしても、入信する以前と比べてみれば、信仰の功徳によって大きく成長している姿が必ずあるのです。 

その成長してきた姿こそが実証であり、ご本尊の御力の証明です。 

世間の人々にも、そのことを説かなくてはならないのです。 

それを、無理をして完全無欠を装ってみても、それは虚像に過ぎません。 

所詮、罪障の消滅しきれていない末法の凡夫なのですから、どこかで必ず、悩み、苦しみが吹き出してくることはあるはずですし、今現在においても、克服できていない事があると思います。 

それにもかかわらず、完全さを装っていこうとすれば、正直で素直な信仰ではなく、苦しい仮面の信仰になってしまいます。

だからといって、まずい点をそのままにしておいてよ、ということではありません。

欠点は、欠点として改めていく努力はすべきでありましょう。

しかし、それは、「良い姿を見せれば、信心してもらえるかもしれない」、などと、人に見せて評価してもらうためではありません。 

我々自身の信心の上から、ご本尊様に願って、改めるべきは改めて、幸福な姿になっていこうということであります。

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