日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

顕正会員に伝えたいこと:国立戒壇思想に染まった創価躍進時代こそが、「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」の手本であったということ

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日蓮大聖人様を信仰していたとしても、間違った信仰は国を亡ぼすほどの総罰をいただくことになるのです。

種々御振舞御書に「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」という、有名な御金言がございます。

今日はこのことについて、創価学会顕正会などの異流儀団体の主張を考察しながら、なぜ彼の者達が「あしくうやまはば」に堕したのかに言及してみたいと思います。

この考察は、私の一個人の見解であることを了解して、以下の記述をお読みください。

1 創価学会は、四悉檀(ししつだん)が理解できていなかった。

まずは日蓮正宗における四悉檀について、尾林御尊能化の御法話を熟読玩味していただきたいと思います。 

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四悉檀とは、四つの弘教方法を示したもので、世界悉檀(せかいしつだん)・為人悉檀(いにんしつだん)・対治悉檀(たいじしつだん)・第一義悉檀(だいいちぎしつだん)をいいます。悉檀とは遍く衆生に施すことで、日蓮正宗では折伏を意味します。

人にも多くの方がいます。一方的な弘教だけでは、折伏しにくい面があります。折伏を円滑に行いやすくするために説かれた法義、それが四悉檀です。正法時代の竜樹菩薩が大智度論に説かれたものを、日蓮大聖人が末法に相応しい形で示されました。折伏を行じていくうえで、心得ておく必要があります。 

しかし、第二次世界大戦後の新宗教乱立時代に、日蓮正宗の信徒団体として勃興・興隆・繁栄を成し遂げた創価学会は、四悉檀の本当の意味である

 世界悉檀とは楽欲悉檀ともいい、衆生の願いや、欲望に応じて法を説き、利益を与えること。
 為人悉檀とは生善悉檀ともいい、衆生の機根に応じて法を説き、善根を増長させること。
 対治悉檀とは断悪悉檀ともいい、三毒を対治するために貪欲の者には不浄を観じさせ、瞋恚の者には慈心を修せしめ、愚癡の者には因縁を観じさせること。
 第一義悉檀とは入理悉檀ともいい、前の三種が段階的な化導であるのに対し、法をただちに説いて衆生に真理を悟らせること。
 この四悉檀を摂折二門といわれる、摂受と折伏に分けられます。世界悉檀・為人悉檀は摂受門となり、対治悉檀・第一義悉檀は折伏門となります。

 の四つの意義を

  • 「功徳乞食を功徳で釣る」
  • 「凡夫の正義感を煽り、吊るし上げ折伏をする」
  • 「御本尊様を幸福製造機と呼ぶ」
  • 「大聖人様の御内証を宇宙に遍満する法則・リズムと理解する」

などと曲解し、凡夫の浅知恵で異流儀思想を会員に広めていきました。

中でも「国立戒壇建立」≒「公明党の政治活動の目標(国会における発議)」という、広宣流布の事相を事前に限定してしまう勇み足をしてしまい、世間から宗教ファシズム日蓮正宗の国教化・入信を拒む者への迫害)と誤解されてしまいました。

選挙に不利と見るや、1970年には「国立戒壇構想」を撤回し、正本堂を寄進して広宣流布事相の戒壇堂と謀ったのでした。

2 同じく四悉檀が解らない顕正会

予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか(太田左衛門尉御返事)

世間普通の義とはなんでしょうか?

鎌倉時代室町時代・戦国時代・江戸時代・明治時代・大正時代・昭和(戦前)・昭和(戦後)・平成時代・令和時代・・・

大聖人様御生誕後、日本の国に限っても事相の変化は目まぐるしく起きています。

ですから日顕上人様は、

「我々は本当に全人類を救済するという大目標の上において、御本仏大聖人様が最後に御遺誡また御命題として我々にお残しくださった『三大秘法抄』『一期弘法抄』の「戒壇」の文については、軽々にああだこうだと言うべきではないと思います。

もちろん今、ある時点を予測して考えれば、こうともああとも色々なことを言えるけれども、将来どう変わるかということは本当に判りません。

だいいち、日本の現在の民主主義の形だって、憲法だって、将来どう変わるか判らない。

だから、そんなことに関して今、どうのこうのと具体的な形で言う必要はないのです。
一番最初に言ったように、戒壇というのは事相だということを、大聖人もおっしゃっておりますように、事相なのだから、実際の相というものはその時でなければ明確性が顕れません。

よって『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇ということは、まさにその時が来た時に、本門戒壇の大御本尊様を根本と拝しつつ、その時の御法主がその時の実状に即した形で最終の戒壇を建立するのだと、私どもは信ずべきであると思うのであります。(第五十三回 全国教師講習会の砌 平成16年8月26御法主日顕上人猊下御講義)」

と御指南下さっております。

まさに、仰せの通りで、世間普通の義に絶対的な善悪の基準は存在しません。

今のような民主主義思想が日本に根付いたのは、ほんの最近の出来事なのですから。

国立戒壇≒本門事の戒壇という理解が、日蓮正宗教義に違背しないと思われたのは、天皇主権時代(天皇=現人神=国體)だったからです。そして、創価躍進の時代というのは、戦前の雰囲気が常識として共有されていた時代だったから、そのまま使用もし日蓮正宗でも容認しておりました。

むしろ、現在からみれば、国立戒壇思想に依拠して、折伏戦を展開した創価学会が泡沫のように消えてしまったことに鑑みると、やはり国立戒壇思想は誤った考えであったことが、現証として顕現しているとみるべきでしょう。

日本の国は日蓮大聖人様の本国・生国であり、末法御本仏有縁の広宣流布根本の妙国でありますが、一閻浮提総与の戒壇の代御本尊様は、全世界・全宇宙の全衆生救済のための対境(修行するための)の御本尊様です。日本国・日本国民が独占することや、他国の民衆に優位することを保証する御本尊様ではありません。

3 戒壇の大御本尊様にお目通りできないことをこそ嘆くべし

顕正会では、戒壇の大御本尊様を称賛しながら、会員には顕正会本部会館安置の御本尊様への参詣を督励しています。

創価は、とっくに捨ててしまい、会員の中には身延や池上の人々と同じように、偽作説を吹聴する者までいます。

元僧侶であった者たちの僧団「正信会」も同様です。

このことのおかしさに気付いていくことが大切だと思うのです。

我が身法華経の行者ならば霊山の教主・釈迦・宝浄世界の多宝如来・十方分身の諸仏・本化の大士・迹化の大菩薩・梵・釈・竜神十羅刹女も定めて此の砌におはしますらん、水あれば魚すむ林あれば鳥来る蓬萊山には玉多く摩黎山には栴檀生ず麗水の山には金あり、今此の所も此くの如し仏菩薩の住み給う功徳聚の砌なり、多くの月日を送り読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし、然るを毎年度度の御参詣には無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか、弥はげむべし・はげむべし。
 十月八日 日 蓮花押
 四条中務三郎左衛門殿御返事

御使の申し候を承り候、是の所労難儀のよし聞え候、いそぎ療治をいたされ候いて御参詣有るべく候。(中略)此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり、されば日蓮が胸の間は諸仏入定の処なり、舌の上は転法輪の所・喉は誕生の処・口中は正覚の砌なるべし、かかる不思議なる法華経の行者の住処なれば・いかでか霊山浄土に劣るべき、法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり、神力品に云く「若しは林の中に於ても若しは樹の下に於ても若しは僧坊に於ても乃至而般涅槃したもう」と云云、此の砌に望まん輩は無始の罪障忽に消滅し三業の悪転じて三徳を成ぜん、彼の中天竺の無熱池に臨みし悩者が心中の熱気を除愈して其の願を充満する事清涼池の如しとうそぶきしも・彼れ此れ異なりといへども、其の意は争でか替るべき。
 彼の月氏霊鷲山は本朝此の身延の嶺(大聖人様の御在所・現在は富士大石寺奉安堂)なり、参詣遙かに中絶せり急急に来臨を企つべし、是にて待ち入つて候べし、哀哀申しつくしがたき御志かな・御志かな。
 弘安四年九月十一日 日 蓮 花押
 南条殿御返事

「あしくうやまう」とは、日蓮正宗から離れて、日蓮大聖人様にお目通りも叶わず、自己流に御題目を唱えることを言うのです。

又うつぶさの御事は御としよらせ給いて御わたりありしいたわしくをもひまいらせ候いしかども・うぢがみへまいりてあるついでと候しかば・けさんに入るならば・定めてつみふかかるべし、其の故は神は所従なり法華経は主君なり・所従のついでに主君への・けさんは世間にも・をそれ候、其の上尼の御身になり給いては・まづ仏をさきとすべし、かたがたの御とがありしかばけさんせず候、此の又尼ごぜん一人にはかぎらず、其の外の人人も・しもべのゆのついでと申す者をあまた・をひかへして候、尼ごぜんは・をやのごとくの御としなり、御なげきいたわしく候いしかども此の義をしらせまいらせんためなり。(三沢抄)

上記御金言は、「ついで」参りを諫められた御書です。

逆説的に大石寺への参詣の大事を推し量るべきでしょう。

大聖人様は人法体一の御本尊様です。

参詣の大事が解るならば、日蓮正宗の信徒になることも理解できるはずです。

 

 

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