日蓮正宗のススメ

人生談義と時事放談

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日顕上人様の御遷化に際し、悪口罵詈の中傷を為す創価学会員・顕正会員に贈る

大尼御前御返事

 ごくそつえんま王の長は十丁ばかり・面はすをさし・眼は日月のごとく・歯はまんぐわの子のやうに・くぶしは大石のごとく・大地は舟を海にうかべたるやうに・うごき・声はらいのごとく・はたはたと・なりわたらむにはよも南無妙法蓮華経とはをほせ候はじ、日蓮が弟子にてはをはせず・よくよく内をしたためて・をほせを・かほり候はん、なづきをわりみをせめて・いのりてみ候はん、たださきの・いのりと・をぼしめせ、これより後は・のちの事をよくよく御かため候へ、恐恐。
 九月二十日 日 蓮 在御判
 大尼御前御返事

日顕上人様の訃報に接し、狂喜乱舞する創価・顕正の痴れ者共よ。

汝等は、上記の御書をよくよく拝すべし。

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富士山は戒壇の大御本尊様出現に感応して出現した山であります。

大白法・平成15年12月1日刊(第634号より転載)

御書解説(117)背景と大意

新尼御前御返事
(御書 762頁)
一、御述作の由来
 本抄は、文永十二(一二七五)年二月十六日、大聖人様が五十四歳の御時、新尼御前より海苔の御供養と御本尊授与の願い出があり、それに対する返書として、身延において認したためられました。
 本抄を賜った新尼御前は、大聖人様の故郷である安房国東条郷とうじょうのごうの人で、古来、名越朝時なごえともときの孫公時きみときの室とする伝承がありますが、詳しいことは判っていません。
 次に、本抄において問題とされる大尼御前は、『清澄寺大衆中』に記された領家りょうけの尼と同一人物であると考えられます。本抄では、大尼御前に対し重恩の人と述べられ、また『清澄寺大衆中』にも、
 「日蓮が父母等に恩をかほら蒙せたる人なれば、いかにしても後生をたすけたてまつらんとこそいのり侯へ」(御書 947頁)
とあるように、大聖人様や御両親が、何らかの形で大尼御前の恩恵を蒙こうむっていたことが拝されます。
 また、大尼御前にとっても大聖人様は重恩の人でした。東条郷の地頭である東条景信かげのぶによって、大尼御前の所領が侵略されそうになったときには、大聖人様の強い祈りによってそれを阻止そしできたのです。
 こうしたこともあり、大尼御前は大聖人様に帰依するようになったのですが、竜たつの口法難くちほうなん、佐渡さど配流はいると大聖人様が大難に遭われたときには、法華経を捨て退転してしまったのです。
 大尼御前は、肝心なときに法華経を捨てた身でありながら、大聖人様が佐渡配流を御赦免ごしゃめんになられ身延にお入りになられるや、御本尊の授与を願い出たのです。
 本抄は、大尼御前に対する御本尊授与の問題をはじめ、御本尊に関する深義を中心として御指南あそばされています。
二、本抄の大意
 はじめに、新尼と大尼から届けられた海苔の御供養に対する感謝の意と望郷の念が述べられます。草庵を結んだ身延の山が、故郷である安房国東条郷とは全く異なった環境であり、海苔を見たことで、忘れていた故郷と御両親のことが思い出され、涙を抑えることができないと述べられます。
 次に、大尼御前が御本尊授与を望んでいることについて、その対応に困惑していることを述べられます。また、大聖人様が顕された御本尊は、インド・中国・日本のどこにおいても、未だ顕されたことのない未曽有みぞうの御本尊であることを明示されています。
 さらに、この御本尊が法華経『神力品』において釈尊より上行菩薩に付嘱された法体であること、そして正法を弘通していくには大難が競い起こることを御指南されています。
 次いで、大尼御前の信心が、
 「いつわりをろ癡かにて、或時は信じ或時はやぶる」
というものであって、大聖人様が佐渡に流されたときには法華経を捨ててしまったことを述べられています。こうした大尼御前に御本尊を授与すれば、大聖人様御自身が「偏頗へんぱの法師」となってしまうため授与できないと御教示です。
 続いて、新尼御前には、佐渡配流のときも、また現在においても信心に変わりがないので御本尊を授与したが、これから先の新尼御前の信心が最後まで変わらないかどうかには大きな不安もあると仰せです。
 最後に、重恩を受けた大尼御前に御本尊を授与しないということはたいへん心苦しい思いであるが、法華経に違背したからには当然の道理であることを強調し、本抄を結ばれています。
三、拝読のポイント
不退の信心

 一つ目は、不退の信心ということです。大尼御前は、大聖人様に帰依しながらも竜の口法難、佐渡配流のときには法華経を捨ててしまいます。そのため、その後御本尊授与を願い出ても大聖人様は授与されませんでした。
 大聖人様は、大尼御前が竜の口法難に際し退転してしまったことについて、
 「日蓮先よりげざん見参のついでごとに難信難解と申せしはこれなり」
と仰せです。大尼御前は、大聖人様より法華経が難信難解であると常々聞かされていながらも、世間の恐ろしさに負け退転していったのです。
 また本抄では、
 「かまくら鎌倉にも御勘気の時、千が九百九十九人は堕ちて候人々も、いまは世間やわ和らぎ候かのゆへに、く悔ゆる人々も候」
と仰せのように、竜の口法難の際に、大尼御前だけではなく多くの人々が退転し、世間からの風当たりが弱まってきてから退転したことを後悔するという人も多かったのです。
 『開目抄』に、
 「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」
                              (御書 572頁)
とお示しのように、どのような理由があるにせよ、退転することは地獄の業となることをしっかり肚に入れ、不退の信心を貫くことが大切です。

付嘱の法体

 二つ目は、大聖人様が顕された御本尊は、付嘱の法体であるということです。まず大聖人様は、
 「其の中に此の本尊はあ敢へてましまさず」
と、大聖人様が顕された御本尊が、仏教流伝の国々において未だ顕れざる未曽有の御本尊であることを説かれています。
 さらには、
 「我われ五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、此にゆづ譲るべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず」
と仰せになり、大聖人様が顕された御本尊は、釈尊より上行菩薩に付嘱された、いわゆる結要けっちょう付嘱の法であることを示されています。
 そして、この上行菩薩については、
 「日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す」
と述べられ、御自身が上行菩薩であることは明言されていませんが、本抄の行間からは、御自身こそ上行菩薩であるとの意志がはっきり拝せられます。
 ここで留意すべきことは、付嘱の法と表現されることから、釈尊を主、大聖人様を従と捉えてしまい、釈尊がもともと所持していた法が、そのまま御本尊として顕されたかのように考えてしまうことです。
 たしかに、文上の筋目としては釈尊から上行菩薩としての大聖人様に譲られた形を取られていますが、大聖人様を久遠元初くおんがんじょの御本仏と拝する血脈相伝の文底下種もんていげしゅ仏法においては、付嘱の正体が明確となります。
 すなわち、大聖人様の己身所具こしんしょぐの事じの一念三千いちねんさんぜん・直達正観じきたつしょうかんの南無妙法蓮華経を御本尊として顕された、いわゆる自体顕照じたいけんしょうの大漫荼羅だいまんだらなのです。端的に言えば、御本仏大聖人様の御尊体と御魂魄ごこんぱくを、そのまま御本尊として顕されたということなのです。ゆえに日蓮正宗では、大聖人様が御図顕あそばされた御本尊を人即法にんそくほう・法即人ほうそくにん・人法一箇にんぽういっかの本尊と称するのです。
 いずれにせよ、宗祖所顕の御本尊が、前代には全く顕されていない未曽有の御本尊であることを深く拝し、御本尊を受持していくことが大切なのです。

折伏の心構え

 三つ目は、本抄において折伏の心構えが教示されていることです。
 本抄では、法華経
 「如来の現在すら、猶怨嫉なおおんしつ多し。況いわんや滅度めつどの後をや」
                         (法華経 三二六頁)
 「一切世間に怨あだ多くして信じ難く」(同 三九九頁)
の文を引かれ、この法門を弘通するには、三類さんるいの強敵ごうてきが競い起こることを御教示です。
 大聖人様の御生涯そのものが、三類の強敵による諸難に立ち向かい、正法を弘通されたのですから、私たちが広宣流布に邁進する中においても同じ心構えが必要なのです。難を怖おそれる惰弱だじゃくな心では折伏はできませんし、信心を貫くこともできません。強い心を堅持し、難を怖れぬ折伏を行っていくためにも、常に唱題に励むことが大切なのです。
四、結 び
 本抄の、
 「諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼まん荼羅だらを身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶たすけ万民は難をのがれん」
との仰せは、大聖人様の御出現によって顕された三大秘法の御本尊が、末法衆生を救う唯一の法であることを教示されていると拝せられます。
 したがって、正法を信受できた私たちは、広宣流布に向かって邁進する以外に世界の平和と幸福はあり得ないことを固く信じ、御法主上人猊下の御命題である「『立正安国論』正義顕揚七百五十年」の地涌倍増に向け、一層精進しようではありませんか。

特に創価民・顕正民で、日蓮正宗の御本尊様を創価・顕正に渡してしまった者どもよ。その罪を「創価・顕正に騙されて」の一言で片づけられると思うなかれ。

御本尊様の大事、新尼御前御返事を熟読し、思い知るべきであろう。冒頭の大尼御前は信心の薄さから御本尊様を授与していただけなかった人間である。授与されながら不敬した己等は、その罪さらに重いと知るべきであろう。日達上人・日顕上人憎さのあまり、取り返しのつかぬことをしでかしたと懺悔すべきである。

日顕上人様の臨終の相は、透き通るような成仏の相であったとか。

罪の大きさを知り、御宗門に帰依されたし。

日蓮正宗 寺院紹介 全国

新尼御前御返事
 新尼御前御返事 文永十二年二月 五十四歳御作

 あまのり一ふくろ送り給び畢んぬ、又大尼御前よりあまのり畏こまり入つて候、此の所をば身延の嶽と申す駿河の国は南にあたりたり彼の国の浮島がはらの海ぎはより此の甲斐の国・波木井の郷・身延の嶺へは百余里に及ぶ、余の道・千里よりもわづらはし、富士河と申す日本第一のはやき河・北より南へ流れたり、此の河は東西は高山なり谷深く左右は大石にして高き屛風を立て並べたるがごとくなり、河の水は筒の中に強兵が矢を射出したるがごとし、此の河の左右の岸をつたい或は河を渡り或時は河はやく石多ければ舟破れて微塵となる、かかる所をすぎゆきて身延の嶺と申す大山あり、東は天子の嶺・南は鷹取りの嶺・西は七面の嶺・北は身延の嶺なり、高き屛風を四ついたてたるがごとし、峯に上つて・みれば草木森森たり谷に下つてたづぬれば大石連連たり、大狼の音・山に充満し猨猴のなき谷にひびき鹿のつまをこうる音あはれしく蟬のひびきかまびすし、春の花は夏にさき秋の菓は冬になる、たまたま見るものは・やまがつがたき木をひろうすがた時時とぶらう人は昔なれし同朋なり、彼の商山の四皓が世を脱れし心ち竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ、峯に上つて・わかめやをいたると見候へば・さにてはなくして・わらびのみ並び立ちたり、谷に下つてあまのりや・をいたると尋ぬれば、あやまりてや・みるらん・せりのみしげり・ふしたり、古郷の事はるかに思いわすれて候いつるに・今此のあまのりを見候いてよしなき心をもひいでて・うくつらし、かたうみいちかはこみなとの磯の・ほとりにて昔見しあまのりなり、色形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給いけんと・かたちがへなる・うらめしさ・なみだをさへがたし。
 此れは・さて・とどめ候いぬ、但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされて・おもひわづらひて候、其の故は此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候いし・あまたの三蔵・漢土より月氏へ入り候いし人人の中にもしるしをかせ給はず、西域慈恩伝・伝燈録等の書どもを開き見候へば五天竺の諸国の寺寺の本尊・皆しるし尽して渡す、又漢土より日本に渡る聖人日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候、寺寺の御本尊皆かんがへ尽し・日本国最初の寺・元興寺四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば其の寺寺の御本尊又かくれなし、其の中に此の本尊は・あへてましまさず。
 人疑つて云く経論になきか・なければこそ・そこばくの賢者等は画像にかき奉り木像にも・つくりたてまつらざるらめと云云、而れども経文は眼前なり御不審の人人は経文の有無をこそ尋ぬべけれ、前代につくりかかぬを難ぜんと・をもうは僻案なり、例せば釈迦仏は悲母・孝養のために忉利天に隠れさせ給いたりしをば一閻浮提の一切の諸人しる事なし、但目連尊者・一人此れをしれり此れ又仏の御力なりと云云、仏法は眼前なれども機なければ顕れず時いたらざればひろまらざる事・法爾の道理なり、例せば大海の潮の時に随つて増減し上天の月の上下にみちかくるがごとし。
 今此の御本尊は教主釈尊・五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年・其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品・属累に事極りて候いしが、金色世界の文殊師利・兜史多天宮の弥勒菩薩補陀落山の観世音・日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士・我も我もと望み給いしかども叶はず、是等は智慧いみじく才学ある人人とは・ひびけども・いまだ法華経を学する日あさし学も始なり、末代の大難忍びがたかるべし、我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり・此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、あなかしこ・あなかしこ・我が滅度の後・正法一千年・像法一千年に弘通すべからず、末法の始に謗法の法師一閻浮提に充満して諸天いかりをなし彗星は一天にわたらせ大地は大波のごとくをどらむ、大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人人・各各・甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕ること雨のごとく・しげからん時・此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱るべしと仏・記しをかせ給いぬ、而るに日蓮上行菩薩には・あらねども・ほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいかと存じて此の二十余年が間此れを申す、此の法門弘通せんには如来現在猶多怨嫉・況滅度後・一切世間・多怨難信と申して第一のかたきは国主並びに郡郷等の地頭・領家・万民等なり、此れ又第二第三の僧侶が・うつたへに・ついて行者を或は悪口し・或は罵詈し・或は刀杖等云云。
 而るを安房の国・東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神・跡を垂れ給へり、昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給いてこそありしかども、国王は八幡・加茂等を御帰依深くありて天照太神の御帰依浅かりしかば、太神・瞋りおぼせし時・源右将軍と申せし人・御起請文をもつて・あをかの小大夫に仰せつけて頂戴し・伊勢の外宮にしのび・をさめしかば太神の御心に叶はせ給いけるかの故に・日本を手ににぎる将軍となり給いぬ、此の人東条の郡を天照太神の御栖と定めさせ給う、されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず安房の国東条の郡にすませ給うか、例えば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城の国・男山に移り給い、今は相州・鎌倉・鶴が岡に栖み給うこれも・かくのごとし。
 日蓮は一閻浮提の内・日本国・安房の国・東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり、随つて地頭敵となる彼の者すでに半分ほろびて今半分あり、領家は・いつわりをろかにて或時は・信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を蒙りし時すでに法華経をすて給いき、日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり、日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば十羅刹定めて偏頗の法師と・をぼしめされなん、又経文のごとく不信の人に・わたしまいらせずば日蓮・偏頗は・なけれども尼御前我が身のとがをば・しらせ給はずして・うらみさせ給はんずらん、此の由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ召して尼御前の見参に入れさせ給うべく候。
 御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候、さどの国と申し此の国と申し度度の御志ありてたゆむ・けしきは・みへさせ給はねば御本尊は・わたしまいらせて候なり、それも終には・いかんがと・をそれ思う事薄冰をふみ太刀に向うがごとし、くはしくは又又申すべく候、それのみならず・かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候人人も・いまは世間やわらぎ候かのゆへに・くゆる人人も候と申すげに候へども・此れはそれには似るべくもなく・いかにも・ふびんには思いまいらせ候へども骨に肉をば・かへぬ事にて候へば法華経に相違せさせ給い候はん事を叶うまじき由いつまでも申し候べく候、恐恐謹言。
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