日蓮正宗のススメ

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七七日は泰山王(たいせんおう)で本地は薬師如来(やくしにょらい)である。

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ここらで一度おさらいを

七七日は泰山王たいせんおうで本地は薬師如来やくしにょらいである。この王へ詣でる道に一つの悪処がある。これを闇鉄所という。遠い事は五百里、暗い事は譬えようもない。まったく夜昼の区別もない。またその道は細くて左右の岸はみな鉄の巌である。罪人は身を細めて通るのだが、巌の楞かどは剣のようで、少しでもさわれば身の肉は切れてしまう。先へ進もうとすればにわかに巌は閉じて通れない。立ち止まろうとすれば巌はまた開く。このような苦を受けて七日七夜かけて泰山王の御前へ参上する。またどのような事を言われるのかとおずおずと御前に控ひかえる。すぐに大王は罪人を御覧になって、「それにしてもお前が後生を他人事だと思っていい加減にしたのはあわれなことよ。我身の大切さを思わない者だなあ。人間として生を受ける事は、盲亀もうきの浮木ふぼくに会うようにまれことだと仏様は説いておられる。恒沙の砂ほどの多くの前世の善根があって、まれなこととして人間になれ、なおまた人間界で得難い仏法に会う事を得たのに、仏道修行をばせず、夢幻のようにはかないのにその身を思って、生涯を空しく暮して今このような憂目を見ることの愚さよ。お前はそれで仏法と縁を結ぼうとどれほどのことを行ったのだ。説法なども聞かなかったのか。ありのままにいえ」とおっしゃれば、罪人がいうには、「おっしゃるように娑婆にいた時は、はかなく浮世を過そうとして時間を惜しみ、仏道修行をせず、また説法などの近い所にあったけれども、あるいは世事に隙がなく、または格好が悪くて恥ずかしいので行きもせず、それで一度も聞きませんでした。」

大王はまたおっしゃる。「お前が見るようにこの庭には天竺・震旦・日本をはじめ無数の大国小国の罪人もいる。あらゆるところの鬼といった冥衆と役人である冥官が集まられる所である。お前が物を恥じるならこの庭にいるいまのお前をこそ恥ずべきであるのに、ついに恥じたままに今ここで面おもてをさらす身にとって、見苦しいといって説法も聞かずに、むなしくこの冥土の戻って来て、このあちこちから集まった群集のいる所で獄卒に打たれて泣いていることは、よくよく見苦しいことと思え。これに過ぎた恥があるか」とおっしゃれば、この御言葉が肝に銘じてはずかしさに湧き出るものは涙ばかりである。さてこの王の御前において一切の罪人は生まれ変わる生処を定められる。それで泰山王の御前に六の鳥居がある。すなわち地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道に行く門である。この王くわしく罪人の生処を決められれば、さまざまな罪人等はそれぞれの生処に行くのだ。この鳥居を出れば、地獄に入るべきはすそのまま地獄におち、餓鬼は餓鬼の城に至る。他の道もまたこのようである。これは断罪の庭、一切の罪人の浮ぶか沈むかの境である。もし死後の追善が懇ねんごろならば、悪処の果が転じて善処に生をうける。それで四十九日の弔いは懇ろに営なければならない。そうであるのになお生処が決まらない者を百箇日の王へ送る。

泰山王(たいざんおう)
七七日(四十九日)に裁く裁判官。通常はここで結審する。補佐官が補佐官のため、虫が多い。
天の御柱(あまのみはしら)
見た目は木霊とよく似ている第一補佐官、イザナギイザナミが最初に作った最初の島であるオノゴロ島に生えた御神木で女性。地声が小さい。相当な年であるため、魂である精霊部分も動きづらい状態となっており(樹の周囲ならば動けることには動けるが頭を木の枝で固定して浮いてるような状態になる)そろそろ隠居も考えている。樹と言えば虫と言うこともあり、虫を使い声を伝えたり状況を把握したりしている。天の御柱は呼び方の一つであり、ナンジャモンジャなど好きに呼んで欲しいと言っている。

鬼灯の冷徹 - Wikipedia

 

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泰の字が太になってるような気が