日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

幸福か自由か:幸福洗脳教団からの逃走

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ヒトラーのことは忌み嫌うけど。。。

引用元:https://kariyatetsu.com/blog/1665.php 

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

 

 

A「私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただ一人の圧制者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどうしてなのか、それを理解したいのである。その圧制者の力は人々が自分からその圧制者に与えている力に他ならないのであり、その圧制者が人々を害することが出来るのは、みながそれを好んで耐え忍んでいるからに他ならない。その圧制者に反抗するよりも苦しめられることを望まないかぎり、その圧制者は人々にいかなる悪をなすこともできないだろう。(P011)」

B「これは一体どう言うことだろうか。これを何と呼ぶべきか。何たる不幸、何たる悪徳、いやむしろ、何たる不幸な悪徳か。無限の数の人々が、服従ではなく隷従するのを、統治されているのではなく圧制のもとに置かれているのを、目にするとは!(P013)」

C「仮に、二人が、三人が、あるいは四人が、一人を相手にして勝てなかったとして、それはおかしなことだが、まだ有りうることだろう。その場合は、気概が足りなかったからだと言うことができる。だが、百人が、千人が、一人の圧制者のなすがまま、じっと我慢しているような時、それは、彼らがその者の圧制に反抗する勇気がないのではなく、圧制に反抗することを望んでいないからだと言えまいか(P014)」

D「そもそも、自然によって、いかなる悪徳にも超えることのできない何らかの限界が定められている。二人の者が一人を恐れることはあろうし、十人集ってもそういうことがあるうる。だが、百万の人間、千の町の住民が、一人の人間から身を守らないような場合、それは臆病とは言えない。そんな極端な臆病など決してありえない。(P015)」

E「これは(支配者に人々が隷従していること)、どれほど異様な悪徳だろうか。臆病と呼ばれるにも値せず、それふさわしい卑しい名がみあたらない悪徳、自然がそんなものを作った覚えはないと言い、ことばが名づけるのを拒むような悪徳とは。(P015)」

F「そんなふうにあなた方を支配しているその敵には、目が二つ、腕は二本、体は一つしかない。数かぎりない町のなかで、もっとも弱々しい者が持つものと全く変わらない。その敵が持つ特権はと言えば、自分を滅ぼすことができるように、あなた方自身が彼に授けたものにほかならないのだ。あたがたを監視するに足る多くの目を、あなたが与えないかぎり、敵はどこから得ることができただろうか。あなた方を打ち据えるあまたの手を、あなた方から奪わねば、彼はどのようにして得たのか。あなた方が住む町を踏みにじる足が、あなた方のものでないとすれば、敵はどこから得たのだろうか。敵があなた方におよぼす権力は、あなた方による以外、いかにして手に入れられるというのか。あなた方が共謀せぬかぎり、いかにして敵は、あえてあなた方を打ちのめそうとするだろうか。あなた方が、自分からものを奪い去る盗人をかくまわなければ、自分を殺す者の共犯者とならなければ、自分自身を裏切る者とならなければ、敵はいったいなにができるというのか(P022)」

ここまでの、ラ・ボエシの言う事を要約すると、

「支配・被支配の関係は、支配者側からの一方的な物ではなく、支配される側が支配されることを望んでいて、支配者に、自分たちを支配する力を進んで与えているからだ」

と言う事になる。

「支配されたがっている」

とでも言い換えようか。

それが、ラ・ボエシの言う「自発的隷従」である。

まさに、私の見てきた創価学会顕正会の姿である。 

ブラック企業も同じか。

いや、そもそも日本の社会そのものが、隷従社会ではなかったか?

日本の社会はこの「自発的隷従」で埋め尽くされている。

というより、日本の社会は「自発的隷従」で組立てられている。

日本人の殆どはこの「自発的隷従」を他人事と思っているのではないか。

他人事とは飛んでもない。自分のことなのだ。

大半の日本人がもはや自分でそうと気づかぬくらいに「自発的隷従」の鎖につながれているのだ。

読者諸姉諸兄よ、あなた方は、私の言葉に怒りを発するだろうか。

火に油を注ぐつもりはないが、怒りを発するとしたら、それはあなた方に自分自身の真の姿を見つめる勇気がないからだ、と敢えて私は申し上げる。

上に上げた、ラ・ボエシの言葉を、自分の社会的なあり方と引き比べて、読んで頂きたい。 

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共産主義社会主義も隷従社会を形成した

ラ・ボエシは言う。

G「人々はしばしば、欺かれて自由を失うことがある。しかも、他人によりも、自分自身にだまされる場合が多いのだ。(P034)」

H「信じられないことに、民衆は、隷従するやいなや、自由を余りにも突然に、あまりにも甚だしく忘却してしまうので、もはや再び目覚めてそれを取り戻すことができなくなってしまう。なにしろ、あたかも自由であるかのように、あまりにも自発的に隷従するので、見たところ彼らは、自由を失ったのではなく、隷従状態を勝ち得たのだ、とさえ言いたくなるほどである。(P034)」

I「確かに、人は先ず最初に、力によって強制されたり、打ち負かされたりして隷従する。だが、後に現れる人々は、悔いもなく隷従するし、先人たちが強制されてなしたことを、進んで行うようになる。そう言うわけで、軛(くびき)のもとに生まれ、隷従状態の元で発育し成長する者達は、もはや前を見ることもなく、生まれたままの状態で満足し、自分が見いだした物以外の善や権利を所有しようなどとは全く考えず、生まれた状態を自分にとって自然な物と考えるのである。(P035)」

J「よって、次のように言おう。人間に於いては、教育と習慣によって身に付くあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものと言えば、元のままの本性が命じる僅かなことしかないのだ、と。(P043)」

K「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。だからこそ、どれほど手に負えないじゃじゃ馬も。始めは轡(くつわ)を噛んでいても、そのうちその轡を楽しむようになる。少し前までは鞍を乗せられたら暴れていたのに、今や馬具で身をかざり、鎧をかぶって大層得意げで、偉そうにしているのだ。(雁屋註:西洋の騎士が乗る馬の姿のことであろう)(044)」

L「先の人々(生まれながらにして首に軛を付けられている人々)は、自分たちはずっと隷従してきたし、父祖たちもまたその様に生きて来たという。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってその様に信じ込まされている。こうして彼らは、自らの手で、長い時間をかけて、自分たちに暴虐を働く者の支配を基礎づけているのである。(P044)

これは幸福≒隷従という図式を炙り出す。

自由の対義語は平等だ。

幸福≒隷従≒平等なのか?

いや、違う。

隷従≒平等幻想≒一体感なのだ。

皆と同じであるとの妄想。

幸福なるものを実現できる、手に入れられるとの妄想こそが隷従への道なのだ。

「〇〇先生の指導に異体同心して」・・・〇〇が池田でも浅井でも同じ。天皇陛下でも、上司や友人・同僚たちでも同じ。 

これは幸福(功徳・御利益)を餌に大衆の心を縛っているに過ぎない。

本来、幸福の姿は個々人各様違うはずである。

これを自由という。

何か共通の普遍的な幸福があるかのように錯覚させる魔術が、全体主義の起源であり人類進化の過程で獲得してきてしまった、道徳感情と呼ばれる功名心への欲求なのである。

人は金持ちになるか幸福なのではない。金持ちに見られることが幸福なのである。金=貨幣は評判の数字化・具現化された道具なのである。地位や肩書も同様で、他人に君臨できることが快感なのである。

しかし、貨幣・地位・肩書は限られたものにしか与えられない。

格差の法則(ピケティの法則)「r > g」により、放置された資本主義社会では大規模災害・世界的大戦がない限り、どんどん貧しい人々が増えていく。

r(リターン)とは、株や不動産など、資産運用から得られる利益率のこと。

g(グロース)は、経済成長率。働いて得る、所得の伸び率。

資産運用による利益が、所得の伸びを上回れば、資産を持つ人と持たずに働く人の格差は広がるばかり。

ピケティ氏の研究によれば歴史上、r(資産からの利益率)は常に、g(所得の伸び率)を上回り続けていた。

格差社会が成立すれば、その不条理に人々は気づき始める。

創価学会顕正会において脱会者が増えているのは、幸福などどこにも存在せず、財産と時間を組織に収奪されていることに気付き始めたということなのだ。

資本主義も民主主義も社会主義も宗教団体も会社教も、幸福を餌にした疑似社会契約宗教にすぎない。

公正な社会契約などイデオロギーは持っていないのだ。

そして、革命か戦争かによって、全てを御破算に願いましてとなるわけだ。

真の自由とは?

社会の各人が道徳感情から解脱するしかない。

名聞名利の虜囚から脱却するしかないのだ。

ラ・ボエシは書いている。

M「圧制者には、立ち向かう必要なく、打ち負かす必要もない。国民が隷従に合意しない限り、その者は自ら破滅するのだ。何かを奪う必要など無い。ただ何も与えなければよい。国民が自分たちのために何かをなすという手間も不要だ。ただ、自分のためにならないことをしないだけでよいのである。民衆自身が、抑圧されるがままになっているどころか、敢えて自らを抑圧させているのである。彼らは隷従を止めるだけで解放されるはずだ。(P018)」

N「それにしても、なんと言うことか、自由を得るためにはただそれを欲しさえすればよいのに、その意志があるだけでよいのに、世の中には、それでもなお高くつきすぎると考える国民が存在するとは。(P019)」

そうなのだ。

問題は次の二つだ。

「自分たちが隷従していることをしっかり自覚するか」

「自覚したとして、隷従を拒否する勇気を持てるか」

この二つにきちんと対処しなければ、日本はますます「自発的隷従」がはびこる、生き辛い国になるだろう。

ただ、ラ・ボエシの次の言葉は厳しい。

O「人間が自発的に隷従する理由の第一は、生まれつき隷従していて、しかも隷従するようにしつけられているからと言うことである。そして、この事からまた別の理由が導き出される。それは、圧制者の元で人々は臆病になりやすく、女々しくなりやすいと言うことだ(雁屋註:「臆病であることを女々しいと言うのは女性蔑視に繋がるが、ラ・ボエシの生きていた17世紀初頭という時代の制約を理解いただきたい」(P048))

P「自由が失われると、勇猛さも同時に失われるのはたしかなことだ。彼らは、まるで鎖につながれたように、全く無気力に、いやいや危険に向かうだけで、胸の内に自由への熱意が燃えたぎるのを感じることなど絶えてない。(P049)」

Q「そしてこの自由への熱意こそが、危険などものともせずに、仲間に看取られて立派に死ぬことで、名誉と栄光とを購い(あがない)たいとの願いを生じさせるのである。自由な者達は、誰もがみなに共通の善のために、そしてまた自分のために、互いに切磋琢磨し、しのぎを削る。そうして、みなで敗北の不幸や勝利の幸福を分かち持とうと願うのだ。ところが、隷従する者達は、戦う勇気のみならず、他のあらゆる事柄においても活力を喪失し、心は卑屈で無気力になってしまっているので、偉業を成し遂げることなどさらさら出来ない。圧制者共は事のことをよく知っており、自分のしもべたちがこのような習性を身につけているのを目にするや、彼らをますます惰弱にするための助力を惜しまないのである。(P49)」

確かに、隷従を拒否することは勇気がいる。

その日、その日の細かいこと一々について隷従がついて回るのが日本の社会だから、それを一々拒否するのは、辛い。時に面倒くさくなる。

だが、本気で隷従を拒否したいのなら、日常の細かい何気ないところに潜んでいる隷従をえぐり出さなければ駄目なのだ。

だが、そうするとどうなるか。

周りの隷従している人達に、まず攻撃されるのだ。

偏屈だと言われる、へそ曲がりだと言われる、自分勝手だと言われる、他の人が我慢しているのにどうしてあなただけ我慢できないのと言われる、変わり者だと言われる、ひねくれていると言われる、政治的に偏向していると言われる、あなたには出来るかも知れないが他の人は出来ないんだよ、自分だけがいい気になるな。

隷従を拒否しようとすると、まず隷従している人間から攻撃を受けるのだ。

(上に上げた言葉は、私が実際に色々な機会に言われた言葉である)

他方、隷従を要求している側から見れば、排除するか、痛めつけるか、どちらかを選択するだろう。

隷従を続けて生きて行くか、自由を求めるか、それは個人の意志の問題だ。

自由への熱意を失ってしまった人間にとっては、隷従が安楽なのだろうことは、今の日本の社会を見れば良く分かる。

 

最後に、ラ・ボエシの書いた美しい文章を、引き写す。じっくりと読んで頂きたい。

R「この自然という良母は、我々みなに地上を住みかとして与え、言わば同じ家に住まわせたのだし、みなの姿を同じ形に基づいて作ることで、いわば、一人一人が互いの姿を映し出し、相手の中に自分を認めることが出来るようにしてくれた。みなに声と言葉という大きな贈り物を授けることで、互いにもっとふれあい、兄弟のように親しみ合う様にし、自分の考えを互いに言明し合うことを通じて、意志が通い合うようにしてくれた。どうにかして、我々の協力と交流の結び目を強く締め付けようとしてくれた。我々が個々別々の存在であるよりも、みなで一つの存在であって欲しいという希望を、何かにつけて示してくれた、これらのことから、我々が自然の状態に於いて自由であることは疑えない。我々はみな仲間なのだから。そしてまた、みなを仲間とした自然が、誰かを隷従の地位に定めたなどと言う考えが、誰の頭の中にも生じてはならないのである(P027)」

最後に、この素晴らしい本を翻訳して下さった、山上浩嗣さんに心からお礼申し上げます。

16世紀初めのフランス語は大変に難しいようで、 それを苦労して翻訳して下さったご努力に敬意を表します。この本は、今の日本人に絶対必要な物だと思います。 https://kariyatetsu.com/blog/1665.php

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

自発的隷従論 (ちくま学芸文庫)

 

道徳感情(共感性・協調性・名聞名利を好む心)の 危険性と起源については、アダムスミスが喝破している。また、スピノザのエチカにおいても、詳細に論じられているところだ。 一読をお勧めする。

 

道徳感情論 (講談社学術文庫)

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エチカ―倫理学 (上) (岩波文庫)

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エチカ―倫理学 (下) (岩波文庫)

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スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)
 

 

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