人間五十年とは敦盛 (幸若舞)の有名句。
思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ
私も今年で47歳。下天の一日が過ぎ去ろうとしている。
「人間(じんかん、又は、にんげん)五十年」は、人の世の意。 「化天」は、六欲天の第五位の世化楽天で、一昼夜は人間界の800年にあたり、化天住人の定命は8,000歳とされる。「下天」は、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされる。信長は16世紀の人物なので、「人間」を「人の世」の意味で使っていた。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は下天の一日にしかあたらない、夢幻のようなものだ」という意味になる。
私は文学の主人公が人生の代名詞か、もしくは難問人生の代名詞であった時代に大学時代を過ごした。文学者の生き方は主人公に投影され、その主人公を通して人間や社会や恋愛を考える者が数多くいた。
なかでも、ドストエフスキーの作品は文学の特異点であるように思う。
文学なんて人それぞれの嗜好で価値が決まるもの。。。そんな意見もあるだろうが、ドストエフスキーの作品に登場する人物が、自分や自分の身の回りにいる人々と重なり、普遍性を感じてしまうのだ。
ストーリーやテーマはそれぞれの作品に存在するのだが、作品を読むことが作品を生きるような錯覚に導く力を持っている文学書は、人類史的な使命を持って生み出されたのではないだろうか?
現在進行形で、『悪霊』(Бесы)を読んでいるのだが、そこには普遍的な疑問や難問があるだけで、明解な解答などは提示されていない。読者が自分で考え、その問題を生きるほかないのだ。
ドストエフスキーの4大作品をもう、3回ずつ読みたい。
さらに追加の4作品。
人生四苦八苦になぞらえて、死ぬまでに読みたい8大作品と銘打ちたい。
〇〇のために読むのではなく、読むことで生きる。。。そんな読書を堪能したい。
文学作品なんてオワコンという時代。
私自身がオワコン的存在なのだから、それでもいいじゃないか。
人生の終盤に差し掛かって、一縷の望みが読書欲。
そんな程度が俺の人生。
お粗末様。

ツァラトゥストラはこう言った 上 (岩波文庫 青 639-2)
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