顕正会員との対話:浅井先生を裏切るのですか
私は19歳から38歳までの約20年を顕正会員として生きた。
創価への入会と違って、成人した大人が教学的な判断を下して入会した。
顕正会で人生を棒に振ってしまったことを後悔しているが、自己責任であるし自業自得だと受け入れている。
受け入れることができるようになるまでには、葛藤もあったし迷い(棄教しようかどうか)もあった。
しかし、日蓮正宗信徒として約10年が経過した今、やはり顕正会は間違っているし、日蓮正宗が本物であるという確信に到達しえたことを、日蓮大聖人様に感謝している日々を過ごしている。
浅井先生は、なぜ道を誤ったのか。
浅井先生は1970年前後、どのように振舞うべきであったのか。
それは、法華講員になればよくわかる。
支部の状況にもよるが、法華講には浅井先生と同年代で、真っ当に信徒として生涯を終えようとしている人々がいる。
私の所属する支部には、江戸時代から明治・大正期の創価学会出現以前からの法華講の家系を維持している、法統相続の鑑のような家系の人々がいる。
そういった方々から見れば、創価の問題など露ほども影響のない事柄なのだ。
代々の法華講員の福徳に満ちた姿を見れば、創価学会や顕正会、そして正信会や他門日蓮宗など、「信心がない」だけの存在であることがわかるのだ。
浅井先生の過ちは、「自分が立ち上がらねば、日蓮大聖人様に申し訳ない」などと、増上慢の志に燃え立ってしまったことである。
顕正会ではよく、赤誠などという言葉を使うが、そんなものは孟子や王陽明の孔子の正統を自任した人々と同じ過ちなのである。
私の地域の古い信徒に大塩平八郎という有名人がいる。
大阪の町奉行与力として引き起こした、大塩平八郎の乱で有名な人であるが、この人は乱を起こす前に我が地域の宗家に、自分が下付されていた板御本尊を預けているのだ。
日蓮正宗に縲絏の禍が及ぶのを恐れ、離檀届をだして義挙した模様。
結果は諸天の加護など起きず、短時日のうちに敗戦して父子ともども自爆死して果てた。
孔子の正統は荘子門下であると喝破したのは白川静先生だったのだが、私淑した孟子流に正統を読み違え幕末以降も無残な憤死を惹き起こした者は多い。孟子は孔子門下の邪宗なのである。
では、孔子の教えの真髄とはなんであったか。
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巻懐とは所与を超えることである。そこでは、主体が所与を規定する。それは単なる退隠ではなく、敗北ではない。ましてや個人主義的独善ではない。(白川、同書、p171)
天命・徳・仁というような儒教の根本思想は、その具体的な実践を通じてのみ、獲得される。(白川、同書、p171)
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孔子教団の性格は、そのような出発からいって、当然反体制的であった。孔子の指導するこの教団は、はじめ現実の場で政治を争った。しかし現実の場で争うことは、また対者と同じ次元に立つことである。その意味では、孔子の亡命は、この教団に新生の機会を与えるものであった。もっともそれは、孔子の偉大な人格、その思索と実践とによって、生死の間にえられたものであるが、、その消息を知るものは、顔回など二三の高弟にすぎない。天命・徳・仁というような儒教の根本思想は、その具体的な実践を通じてのみ、獲得される。これを体験的にとらえることは、実際にはおそらく不可能であろう。「人の知ることなき(学而)」世界である。そこに巻懐の道が生まれる。
巻懐とは所与を超えることである。そこでは、主体が所与を規定する。それは単なる退隠ではなく、敗北ではない。ましてや個人主義的独善ではない。その思想は、やがて荘周によって、深遠な哲理として組織される。儒墨が儒侠・墨侠に堕落してゆくなかで、巻懐者の系譜はまた、思想史的に大きな役割をもつのである。(白川、同書、p171)*****
巻懐: まいてふところに入れる。才能を隠して外にあらわさないことをいう。▽「論語」衛霊公篇の「邦無道則可巻而懐之=邦に道無ければ則ち巻きてこれを懐にすべし」から。(ウィキより引用)
孔子の教えにも仏教伝来以前の菩薩の使命として、出世の本懐があったのである。本懐の懐(ふところ)の字が含まれた、
「子の曰わく、直なるかな史魚(しぎょ)。邦(くに)に道あるにも矢の如く、邦に道なきにも矢の如し。君子なるかな蘧伯玉(きょはくぎょく)。邦(くに)に道あれば則ち仕え、邦に道なければ則ち巻きてこれを懐(ふところ)にすべし。」(『論語』衛霊公第十五)
(孔子は述べた、「真っ直ぐだな、史魚(しぎょ)は。国家に道あるときにも矢のようだし、国家に道がないときにも矢のようだ。君子だな、蘧伯玉(きょはくぎょく)は。国家に道のあるときには仕えて才能をあらわすが、国家に道のないときにはくるんで隠しておける。」)
であった。
論語は仁徳を修養する為にある。
実学書ではない。
実学である才能をどう使うかを考えるには仁徳が必要になる。
才能は、刃物のように料理に使うこともできれば、凶器になることもある。
国家に道があるときにその才能を使うのは社会のためになる。
国家に道がないときに才能を使うことは社会に害を及ぼす。
そのため蘧伯玉は国に道がある時には才能を使い、国に道がないときには才能を隠して使われないようにした。
浅井先生はこれが分かっていなかったのである。
それは人徳が養成されていなかったから。
ようするに信心がなかったってことになる。
浅井先生と同世代を生きた信心のある人は、国家神道軍国主義の暴風が襲ってきたときも、創価の増上慢が食いつぶしに来た時も、じっと巻懐の思いで忍び耐えて日蓮正宗を護ってきたのである。
今、思い起こせば、浅井先生の逆恨みの対象になった、日達上人様、日顕上人様が讃岐本門寺の御住職様をされておられたこととも、何らかの因縁がおありなのかと拝察する。
浅井先生の信心は、讃岐本門寺信徒の法難を忍んで来た信心を手本とすべきであった。
見識不足なのである。
起源と歴史[ソースを編集]
甲斐の大石寺信徒秋山泰忠が、四国へ所領替えを命じられたとき、日蓮の弟子日興に教導師の派遣を要請。日興は、秋山家出身の寂日房日華を讃岐へ派遣した。(日華が下讃していないという説もある)
- 1289年(正応2年)、秋山泰忠は、日華を開基として那珂郡丸亀田村町へ方八町の伽藍を建立。本門寺と号したが、その後、兵火で全焼。日華も病のため大石寺へ帰った。
- 1323年(元亨3年)、秋山泰忠は、日華の後任として来た本六僧の日仙を開基として下高瀬に法華堂〔本門寺〕を建立した。
- 1612年(慶長17年)、大弐日円の大石寺参詣の帰途、日興の墓参で大石寺近郊の北山本門寺に立ち寄った所、北山の日健から「法華寺久遠院日円上人」と書かれた本尊を渡される
- 1646年(正保3年)、日円の本尊を根拠として北山の日優が突然、「讃岐本門寺は北山の末寺である」と通告〔讃岐法難〕
- 1647年(正保4年)、16代住職日教[要曖昧さ回避]が寺社奉行へ訴え出るも、「法華寺」に改称させられ、北山本門寺の末寺となる
- 1876年(明治9年)、 大石寺、北山本門寺など富士門流に所属する8本山とその末寺による日蓮宗興門派の設立に参加。
- 1899年(明治33年)、日蓮宗興門派は本門宗と改称。
- 1941年(昭和16年)、本門宗が宗教団体法にもとづき三派合同したのにともない日蓮宗に帰属。
- 1945年、宗教団体法廃止、宗教法人令の発令。宗教法人は認可制から届け出制に。
- 1946年(昭和21年)、日蓮宗を離脱、旧名に戻し、日蓮正宗へ帰属した。
また、大石寺66代住職の日達が当寺の37代、大石寺67代の日顕が38代を兼務した(その間、当時の副住職が本門寺を維持管理していた)。現41代住職は梶原慈文(千葉県市川市弾正寺より晋山)
歴代住職[ソースを編集]
- 初代 上蓮阿百貫房日仙上人
- 第2代 寂日坊日華上人
- 第3代 大弐阿日壽
- 第4代 日山
- 第5代 日門
- 第6代 左京阿日香
- 第7代 日迎
- 第8代 日院
- 第9代 日鬼
- 第10代 日盛
- 第11代 日秀
- 第12代 日堯
- 第13代 日首
- 第14代 久遠院日円
- 第15代 日乗
- 第16代 久遠院日教
- 第17代 雲竜院日研
- 第18代 遠寿院日真
- 第19代 恵林院日達
- 第20代 日量
- 第21代 長恩院日要
- 第22代 本興院日恵
- 第23代 日泰
- 第24代 瑞光院日遦
- 第25代 浄光院日邐
- 第26代 便妙院日逞
- 第27代 日忠
- 第28代 日住
- 第29代 貫正阿日睿
- 第30代 貫善阿日弘(橋本阿、道号:寛善、俗姓:小笠原)
- 第31代 小笠原阿英道院日芳(道号:泰英、俗姓:小笠原)
- 第32代 証種院日垢
- 第33代 広善院日貫
- 第34代 恵光院日章上人(俗姓:大川)
- 第35代 久遠院日鳳上人(道号:文覚、俗姓:相馬)
- 第36代 上蓮阿仙流院日文贈上人(道号:祐覚、俗姓:貞広)
- 第37代 日達上人(総本山第66世・本門寺貫主兼務)(道号:精道、俗姓:細井)
- 第38代 日顕上人(総本山第67世・本門寺貫主兼務)(道号:信雄、俗姓:阿部)
- (副住職 大野阿智浄房日透大徳(俗姓:三好、昭和48年9月就任~60年1月逝去))
- 第39代 法護阿日淳贈上人(道号:慈正、俗姓:稲尾)
- 第40代 横田智研
- 第41代 梶原慈文