一応、現役学会員
はじめまして。私は20台の若造です。創価中学、高校に通いましたが、創価の世界につくづく嫌気が差し、一般大学に進学、以来宗教とはほぼ無縁の生活を送ってきましたが、自分の人生を覆った宗教に関する問題について考えねばならぬという思いに駆られ、目下勉強中です。
創価の問題を考える上で、日蓮正宗の教義とも向き合わねばと思い、本を読んだり、様々な人と話したのですが、あまり議論ができませんでした。そんな中、本ブログにめぐり合うことができ、大変興味深く拝読しました。
「日蓮正宗の教学的に私がどのように納得したのか」という本記事の論点、大変興味深かったので、私見を書かせてください。また、フッサールを読んでおられる日蓮正宗の方に始めてお会いしましたので、それに沿って記載させていただきます。
フッサールの危機本を挙げておられますが、恐らく彼が言った「事実学」を「帰納法的に成立する学問」とパラフレーズされているのだと理解しました。評価的態度、価値的なものを排除し、それが生活世界を基盤に構築されたにもかかわらず、事物世界だけを抽出したものだとされていますね。近代における自然科学やそれに影響を受けた社会科学、文献学、さらにソクラテスに端を発する人格主義的学問も、客観主義を免れていません。そこで彼が事実学の対義語として出すのが理念学ですが、無論自然主義的態度が価値的規範的意味を生活世界に与えることはないでしょう(牧口もこのようなことを言っていたと思います)。
ただ疑問であるのが、日蓮正宗において多く論点となるトピックがフッサールの提唱したような超越論的現象学ではなく、「事実学」の領域の問題であることです。大御本尊や血脈相承に関する問題は歴史的痕跡から実証を行う事実学の領域かと思います。それに対し、「大聖人は末法の本仏」という命題を巡る議論は、彼が生まれた年代や彼のテキストを巡る真偽問題に関する事実学的問題を除けば、理念的論争となります。これについては、フッサール的に言えば不可証命題だと思いますので、信仰の世界で論ずるべきだと思います。私は、こうした「事実学」の領域を、全て「理念」的問題とする点に疑問を感じてしまいます(よくある「学問と信仰は違う」という主張に関する問題。信仰のどの部分が学問とは異なるのかが精査されていないのが原因と思います)。
また、そうした「事実学」の限界を感じられた後、「演繹法」(これは中世キリスト教神学やデカルトも用いた方法ですね)に辿りつかれる理由がわからないのです。それこそ、後期ハイデガーのような、「存在の声を聞く」のような道のりでしょうか?
演繹法は、大命題への不可疑から派生した理論構築と理解しますが、その不可疑の大命題への吟味がどのようになされたのか、を考えるべきかと思っています(この点を死ぬほど考えたのがデカルトという理解です)。その吟味なければ、大命題は「大川隆法はエル・カンターレ」など何でも成立してしまいますし、気になるのはその大命題の選定です。
不躾なコメント申し訳ございません。御意見お聞かせいただけますと幸いです。
コメントをいただいた記事は、昨年の9月に書いた
nichirendaihonin.hatenablog.com
でした。
私個人的には、とてもうれしいコメントでした。
問題意識が同じだからです。
哲学系の本を一切読んだことの無い方には、全くなんのことやらという話だと思いますが。
昨日、コメント欄には簡単に返信させていただいたのですが、改めて意見を書いてみたいと思います。
はじめまして。私は20台の若造です。創価中学、高校に通いましたが、創価の世界につくづく嫌気が差し、一般大学に進学、以来宗教とはほぼ無縁の生活を送ってきましたが、自分の人生を覆った宗教に関する問題について考えねばならぬという思いに駆られ、目下勉強中です。
創価の問題を考える上で、日蓮正宗の教義とも向き合わねばと思い、本を読んだり、様々な人と話したのですが、あまり議論ができませんでした。そんな中、本ブログにめぐり合うことができ、大変興味深く拝読しました。
「一応、現役学会員」さんは、20代の青年の方。
「創価中学、高校に通いましたが」とありますので、熱心な創価学会員さんのご家庭に、お生まれになったのでしょうか。
両親が熱心な創価学会員であったことは、世代こそ違えども、私と同じような環境に少年時代を生きたのではなかろうかと、推測しております。
「創価の問題を考える上で、日蓮正宗の教義とも向き合わねばと思い」という言葉から、真摯なお人柄が分かります。
「本を読んだり、様々な人と話したのですが、あまり議論ができませんでした。そんな中、本ブログにめぐり合うことができ、大変興味深く拝読しました。」お気持ちをお察しいたします。問題意識を共有できる人に出会うには、日蓮正宗系界隈というのはあまりにも了見の狭い世界ですので。
フッサールの危機本を挙げておられますが、恐らく彼が言った「事実学」を「帰納法的に成立する学問」とパラフレーズされているのだと理解しました。評価的態度、価値的なものを排除し、それが生活世界を基盤に構築されたにもかかわらず、事物世界だけを抽出したものだとされていますね。近代における自然科学やそれに影響を受けた社会科学、文献学、さらにソクラテスに端を発する人格主義的学問も、客観主義を免れていません。そこで彼が事実学の対義語として出すのが理念学ですが、無論自然主義的態度が価値的規範的意味を生活世界に与えることはないでしょう(牧口もこのようなことを言っていたと思います)。
まったく仰る通りです。
「恐らく彼が言った「事実学」を「帰納法的に成立する学問」とパラフレーズされているのだと理解しました。」この言葉を読ませていただいた時に、この青年の見識の高さに舌を巻きました。
読者の為に説明させていただきますと、パラフレーズとは言い換え表現のことです。
私は、フッサールの「危機本」を「帰納法的に成立する学問」への批判本として理解しています。
う~ん。
どのように説明しようかなあ。
まじめな法華講員の人、お怒りにならないでくださいね。
信心を地理に喩えてもいいですか?
読者の皆さんのお住まいの地域を思い出してください。
自分の家の周囲、職場の周囲、体感としての地理を。
家の中でもいいです。
「実感」の伴う「明証性」(明らかで確かな)の世界ですよね???
地図やナビもいらずに行けて、思い出なんかも存在して。家族や友人や同僚や、自分の人生を生活している世界。
そんな、読者さんが生活されている世界も、客観的に説明が可能な世界です。気象学・歴史学・地理学・社会学・経済学など、データや数学などでも説明ができる世界です。
私はブログの記事で、信仰と学問を切り離して論じました。その傍証としてフッサールの「危機本」を紹介したのでした。
nichirendaihonin.hatenablog.com
追加掲載が滞ってしまっていますが、石田氏の「現代諸学と仏法」シリーズも、同じ問題意識から連載しております。
見慣れた土地で不意に迷うことはありますか?
今まで意識しないでいたことに、不意に知的関心をむけると自分のやってきたことの、不確かさを思い知らされるような体験はありますか?
現象学的な欲求とは、不可能であるとわかっていながら、明証性の中に身を置きたいと願うような性質のものだと思うのです。
自分の生活世界の実感は、学問的にはなにも論証できない世界でもあるのです。
駅から自宅までの距離や、職場からもらう給料の金額、学歴、職歴、家族構成、健康状態、etc.・・・私自身を明証的に説明しようとしても、そこに「私」は存在しません。このもどかしさの中で生きているのが、現代かもしれません。
信仰も同じです。
ただ疑問であるのが、日蓮正宗において多く論点となるトピックがフッサールの提唱したような超越論的現象学ではなく、「事実学」の領域の問題であることです。大御本尊や血脈相承に関する問題は歴史的痕跡から実証を行う事実学の領域かと思います。それに対し、「大聖人は末法の本仏」という命題を巡る議論は、彼が生まれた年代や彼のテキストを巡る真偽問題に関する事実学的問題を除けば、理念的論争となります。これについては、フッサール的に言えば不可証命題だと思いますので、信仰の世界で論ずるべきだと思います。私は、こうした「事実学」の領域を、全て「理念」的問題とする点に疑問を感じてしまいます(よくある「学問と信仰は違う」という主張に関する問題。信仰のどの部分が学問とは異なるのかが精査されていないのが原因と思います)。
また、そうした「事実学」の限界を感じられた後、「演繹法」(これは中世キリスト教神学やデカルトも用いた方法ですね)に辿りつかれる理由がわからないのです。それこそ、後期ハイデガーのような、「存在の声を聞く」のような道のりでしょうか?
演繹法は、大命題への不可疑から派生した理論構築と理解しますが、その不可疑の大命題への吟味がどのようになされたのか、を考えるべきかと思っています(この点を死ぬほど考えたのがデカルトという理解です)。その吟味なければ、大命題は「大川隆法はエル・カンターレ」など何でも成立してしまいますし、気になるのはその大命題の選定です。
「大御本尊や血脈相承に関する問題は歴史的痕跡から実証を行う事実学の領域かと思います。それに対し、「大聖人は末法の本仏」という命題を巡る議論は、彼が生まれた年代や彼のテキストを巡る真偽問題に関する事実学的問題を除けば、理念的論争となります。これについては、フッサール的に言えば不可証命題だと思いますので、信仰の世界で論ずるべきだと思います。私は、こうした「事実学」の領域を、全て「理念」的問題とする点に疑問を感じてしまいます(よくある「学問と信仰は違う」という主張に関する問題。信仰のどの部分が学問とは異なるのかが精査されていないのが原因と思います)。」信仰者でない方の意見としては、正鵠を射た意見だと思います。
これほど上手い文章表現を見たことがありません。脱帽の感がいたしました。
「大聖人は末法の本仏」も「大川隆法はエル・カンターレ」も根拠を問うことが不可能な演繹法の大命題です。まさに信仰の世界で語るべき事柄なのです。
そして、「日蓮正宗において多く論点となるトピックがフッサールの提唱したような超越論的現象学ではなく、「事実学」の領域の問題であることです。大御本尊や血脈相承に関する問題は歴史的痕跡から実証を行う事実学の領域かと思います。」に関して、意見の分かれる事柄でもあるのです。
日蓮正宗では「大御本尊や血脈相承」については、「事実学」の領域の問題とはしていないのです。信仰の根幹の部分として、無疑日信(むぎわっしん)を求めますし、ここに疑念を持つ人間には血脈が閉塞されてしまい、功徳もなくなると教えられます。
批判者側はこれを信徒の盲信と断じ、宗門の欺瞞と非難するわけです。
しかし、日蓮大聖人様の仏法の源は、
此の三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮慥かに教主大覚世尊より口決せし相承なり。今日蓮が所行は霊鷲山の稟承に介爾計りの相違なき、色も替はらぬ寿量品の事の三大事なり。(三大秘法稟承事)
との御内証ですから、客観的にないしは明証性のもとに証明できるものではありません。
間主観性に落としどころは見当たらない領域なのだと思っています。
悩ましいことではありますが、最終的には、「信じるか信じないかはあなた次第です」の世界なのです。
しかし、演繹法の大命題を選定する条件に該当するかどうか、「一応、現役学会員」様の御判断にゆだねるとして、過去の記事をご紹介いたします。考証学ではなく仏の大命題から、戒壇の大御本尊様の正統性に言及しております。
ご参考までに
nichirendaihonin.hatenablog.com