日蓮正宗のススメ

万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず

戸田城聖会長の臨終、日達上人様の臨終、その相は・・・「藪の中」・・・日蓮正宗の葬儀の重大意義について

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真相は藪の中

芥川龍之介 藪の中を思い出す。

異なる証言の整合性は結局、藪の中だから。

創価学会第二代会長の戸田城聖氏の臨終の相は良かったのか?悪かったのか?

良かったとの証言も聞いたことがある。

戸田先生の臨終の相が素晴らしく、1週間経っても変わらないから皆に見せてあげたと。戸田氏当人の遺言であったという話も、昔、創価学会時代に聞いたことがあった。

しかし、それとは正反対の話も出てきた。

資料室 戸田城聖氏の死

戸田先生の葬儀において、斎場でいよいよ最後のお別れということになり、
棺の蓋が開けられた時に拝見しました。他にも私の前後に、棺の傍らで
お別れの対面をした本部職員が数人いました。
 それは、大聖人様が仰せられているような成仏の相や、私の身内が
亡くなった時の色白で半眼半口で柔らかな相とは、全く違う、苦悶の相
でした。口が大きく開いて、色も黒くなっており――。

日達上人様の臨終の相についても、最近、顕正会の総幹部会登壇者の発言で、にわかに紛糾の様相を呈してきた。

 (顕正新聞 平成30年10月5日号)

 細井日達富士宮市のフジヤマ病院に入院した際には、母は三回ほど見舞いに行っておりました。
すぐに退院するものと思っていたところ、細井日達は昭和五四年七月に、急遽、激甚の発作に襲われ臨終を迎えたのです。

 母は突然のことに大へん動揺し、なかでも細井日達が大事な「御相承」を行おうとしていた前日に臨終を迎えたことと、医師が二時間に及ぶ心臓マッサージを施したにもかかわらず蘇生しなかったことに、臨終が思うようにならなかった恐ろしさを肌身に感じていました。

 母は細井日達の葬儀にも参列し、その臨終の相を眼前にしたそうです。
なんとその相は───今まで見たこともないほどドス黒く、阿鼻獄を恐れ叫んでいるかのような相だったとのことです。

 母はひと目見た瞬間、あまりの恐ろしさに親戚の背中に隠れてしまったそうです。
 私自身も身震いし、今にして思えば御遺命を守るべき立場の貫首
御遺命破壊に加担した罪の大きさを思わずにはいられず

「一切は現証には如かず」

の御金言、御本仏の厳然たる常住此説法を強く噛みしめるものであります。
 それ以降の母は、学会も宗門もおかしいと感じ始め、徐々に信心から離れた生活を送るようになり、両親ともに宿坊の務めも引退し、私も富士宮市内の大工として働くようになりました。
 平成一〇年のある日、驚くべきことが起きました。そのとき休みで家にいたところ、急に飛行機が墜落したような轟音と衝撃で慌てて外に飛び出してみると、なんと正本堂の撤去工事が始まったのです。
末法事の戒壇」と謳われた正本堂にいったい何が起きたのかと驚きました。

一方、法華講の側の反論は、妙通寺様のHP記事が主役だ。

妙通寺様HPより

 なお、平成30年9月に開催された顕正会の会合で、自称日達上人の遠戚・人物X(人物エックス)が『日達上人の臨終の相は、恐ろしいものだった』『数時間も心臓マッサージをして苦しんでいた』『突然の事だったので、たった一人きりの寂しい臨終だった』等と語ったようです。
 しかし日達上人の御臨終は、7月22日のまだ夜も明けぬ未明だったこともあり、その場には、日達上人夫人とご子息、そして一部の側近の方だけが立ち会われており、日達上人の遠戚はおろか、こうした発言をした人物の関係者が臨終に立ち会っていた事実は一切ありません。
 また、7月22日のご遷化後、日達上人のご遺体は一旦、大石寺大奥「対面所」に安置され、その後、22日の夕方に行われた仮通夜、23日の同じく仮通夜、そして24日の密葬まで大客殿(当時)東側に特設された祭壇に安置されていました。その3日間、日達上人の祭壇では、昼夜を分かたず絶え間なく読経・唱題が続けられ、数百名を越える僧侶や僧侶夫人、ご親戚や総本山従業員の方々、信徒代表の人々が、棺に納められた日達上人のご尊顔を拝しています。当たり前のことですが、そうした数多くの人々がお別れをさせていただくなか、「恐ろしい形相だった」などと語った者など一人もいるはずはなく、ただただその尊いお姿に皆、ご報恩の念を強くしたものです。
 今回、顕正会の会合で発言した人物エックスは、そもそもどのような立場の人間なのか? 「自分の母親が日達上人の縁戚で葬儀に参列」と言っているようですが、その母親は、どのような人物で、現在どこに暮らしているのか? 本当に実在する人物なのか?名前は何というのか?
 当時から総本山でご奉公されている日達上人の縁戚(こちらは正真正銘の御親類)の方々も、「日達上人の遠戚が、自分たち以外にいたことなど聞いたことがないし、まして、そんな素性のよく分からない人が、日達上人の病室に自由に出入りできるはずはない」
と証言されています。 
 「私が見たわけではないが、母親が、そのように言っていた」と責任を母親に転嫁して、さも、自分が見てきたように日達上人の悪口を言いふらす人物エックス。どうして、こんな酷(ひどい)いことを、日達上人ご遷化から40年もたった今頃になって、突然言いだすのか、まったく理解に苦しむところです。

どちらの証言を信じるかは、当人の信仰心次第であろうから、ここでは藪の中には入らないことにしようと思う。

この、日蓮正宗系の話はこれからもいっぱい出てくるだろうから。

池田センセーの死が公表される時も。

浅井センセーの死が公表される時も。

日顕上人様の死が公表される時も。

良かった派、悪かった派の正反対の証言が飛び出すだろうことは、想像に難くない。

しかし、私の今の心境で言えば、そのどれが真実であろうと関係がないのだ。

おそらく私は、そのいずれの御方のお通夜もお葬式も参加できないだろうから。

一念三千法門に十如是の説明があり、そこに如是相について以下のような説明があった。

一に如世相とは、これは十界の依正の相貌(そうみょう)なり。地獄は地獄の容姿あり、乃至菩薩、仏も各々その容姿は異なりて、外に現れて明らかに見るべき容姿を相と言う、すなわち皮相なり。一念三千法門(P55)

すなわち、見た者じゃなきゃ分からないし、逆に見た者には心に響くような衝撃を与えるはずだから。

生きている者同士でも、第一印象はほぼ間違いがないという。

それは、「十界の依正の相貌(そうみょう)なり。」 「外に現れて明らかに見るべき容姿を相と言う」はっきり出ているんだよ。間違いなく。見ようによってはなんて、生ぬるいものじゃないんだ。

私は父の臨終の相を病院のベッドで見たときに、痛烈に思い知らされた。「!!!!」言葉が出なかったもの。明らかに悪臨終の相だった。つらかった。

通夜式で導師御本尊様がお出ましになり、ホッとした表情になり、色が白くなった。信心をしていない親族が、「色が白くなってる~」「顔がやさしくなったね。ホッとしたんだろうか?」などとつぶやいていた。つまり、死者の相は見る側からすれば依報だから、依正不二の原理で見ている方の正報に通じるから分かるんだろう。

葬式ではさらに一段の善相を顕した。頬に赤みが差し、生きているような姿になった。

導師御本尊様は天照大神八幡大菩薩の代わりに、閻魔大王・五道冥官が居住されている。戒名を頂戴し、冥府の王に死後の善処を願い出て出さるのだ。

父はそれにより死後の果報を転じることができたと信じている。

九に如是報、報成とは必然の報酬なり。果報は前後、冥現の別あり。十界の依正、万物の顕現し、その好悪、長短の差別の報いの具わりたるところを言う。譬えば、草木にて果実の成熟したるを報と言うなり。

十に如是本末究竟等、これは初めの如是相を本とし、終わりの如是報を末として、始終円融したるところを究竟等と言う。一念三千法門(p59)

日蓮正宗の葬儀によって、死者の正報が救われれば如是相が変わる。「始終円融したるところを究竟等」 だからだ。そして、それを見せていただいた参列者の正報にも通じ、見る側の心も安穏の境地を感じる。日蓮正宗の葬儀が故人の折伏の場だと、古来より言われるのはこのためだろうと拝察する。

私にとってはそれで十分であり、父の死の成仏により日蓮正宗の信仰への確信を得させていただいた。父により折伏されたのは、喪主であった私だったのだと思っている。

日蓮正宗の御葬式の意義
2005-11-21 | 手引書⑧
 日蓮正宗の御葬式は、最後臨終を御本尊様に御願いする重要な儀式です。一生成仏が出来るか出来ないか決まるのです。日蓮正宗で御葬式を行えば、確実に一生成仏できますが、しかし、信心していても他宗派で御葬式を行うと、一生成仏できません。それだけ日蓮正宗の信心は難信難解という難しさと厳しさがあります。

 宗祖日蓮大聖人は『上野殿御返事』に、

 「御臨終のきざみ、生死の中間に、日蓮かならずむか(迎)いにまいり候べし」(御書1361)

と仰せであり、日蓮正宗で行う御葬式には日蓮大聖人が迎えにこられ、寂光土へと導いて下さるのであります。この意味は、日蓮正宗の寺院から御葬式用の導師御本尊様をお迎えすることで、日蓮大聖人がお迎えに来られたことになります。そして御住職様から、即身成仏を証明する死後の名前、戒名を頂きます。戒名を頂くことで三途の川を安心して渡れる通行証明がされます。最後臨終の即身成仏を決定する、導師御本尊と戒名を否定される方は、日蓮大聖人が迎えに来られませんし、戒名の無い俗名では、三途の川を渡ることが出来ず無間地獄に堕ちます。

 日蓮正宗の御葬儀に御安置申し上げる導師御本尊について大聖人は『弥源太殿御返事』に、

「南無妙法蓮経は死出の山にてはつえはしらとなり給へ。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給ふべし。日蓮さきに立ち候はヾ御迎へにまいり候事もやあらんずらん。又さきに行かせ給はヾ、日蓮必ず閻魔法王にも委しく申すべく候。此の事少しもそら事あるべからず。」(御書722)

と仰せであり、葬儀の際、祭壇に御安置される導師御本尊に御題目の南無妙法蓮華経を唱えることで死出の険しい山道を越えるための杖や柱を施したことになります。さらに大聖人から死後の道案内を賜り閻魔大王にも成仏するように仰ってくださるという有難い意味があります。祭壇に御安置される導師御本尊には特別に常住御本尊と異なり閻魔法王が認められております。大聖人が閻魔大王に故人が成仏するように仰る重要な意義があるためです。また死後の行方を決定される閻魔大王に対しまして恵まれた環境に生まれますようにお願いするという大事な意味もございます。

 大聖人は『妙法尼御前御返事』に、

「しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経ととなへさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃、即身成仏と申す法門なり」(御書1483)

と仰せであります。日蓮正宗における正しい御葬式を行うことで、生まれてから今生を全うされるまで、心身に付いた悪業の縁、四苦八苦を全て仏様の種へと変える働きがあります。つまり六根清浄の功徳を得て成仏していくのであります。更に、日蓮正宗の僧侶が御経をあげることで、生まれてから亡くなられるまでに経験した、個人しか知らない人生の辛さや苦悩、心身の病などを綺麗に洗い流すことが出来ます。次の世では生活環境が恵まれ、心身も六根清浄した姿で日蓮正宗の家庭に生を受けるのであります。

 御葬式では、御線香を供え、成仏を願い御焼香をします。故人の生前に心と体に染み付いた悪業の垢を灰と煙にして滅し、一生成仏のお手伝いをさせて頂きます。香を漂わせることで、成仏の悪縁を払拭させ、御焼香の煙は寂光土へと流れ、故人は、この御葬式に参列された皆様の有り難い御焼香の煙と香りをたよりに、中有の旅を歩み成仏の境界へ日蓮大聖人に導かれていきます。

 日蓮正宗では、色花ではなく、常緑樹の「樒」を御供えします。樒を御供えする意味は、邪気を払うことと、来世での長寿を願うものです。色花は枯れやすいですが、「樒」は生命力が強く、その生命力の強さは、正しく大聖人の御精神に通じるものがあります。故人に御樒を施すことで、御本尊様の尊い功徳により故人は来世で長生きします。

 通夜・御葬儀では、僧侶と一緒に御経をあげることが大事です。御本尊様に御経をあげる意味は、亡くなられた方に、御経をあげ御題目の南無妙法蓮華経を唱えなければ私達の気持ちが伝わりません。生きている時は、普通の言葉で分かり合えますが、亡くなられた方には、御経と御題目を唱えて気持ちを念じれば、御本尊様が通訳の役目をして下さり、故人に全てをお伝えしてくれます。

 日蓮正宗の御葬式は確実に故人を成仏させ、日蓮大聖人が直々にお出ましになられる厳粛なる儀式です。 

※葬儀について(創価学会の冠婚葬祭のはじまりと間違いの破折)

 時局協議会文書作成班1班

日蓮正宗の御葬式の意義 - 正林寺法華講員手引書より引用

 

一念三千法門

一念三千法門