アニメ「アンゴルモア 元寇合戦記」は見逃せない。
最近は深夜アニメだろうが、仕事中の放送だろうが録画機器のおかげで、簡単に予約視聴ができるのでありがたい。
前クールのドラマ・アニメの放送が終わり、今期の放送が始まったので、休日を利用してお試し録画をしていたら、当たりの匂いがするアニメを発見しました。
タイトルは「アンゴルモア 元寇合戦記」。
「元寇」というキーワードは、日蓮正宗信徒の私にはビビッときます。
7/10の初回の放送は、侵攻の予兆を感じさせる対馬でのエピソード。
対馬っていえば、壱岐とともに悲惨な目にあった地というイメージが。
「対馬 元寇」でググってみると、こんな記事が見つかった。↓↓↓↓↓↓↓↓
それでも日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」
今から740年前、中国全土をほぼ手中にし、日本も従属させたいモンゴル帝国(元)皇帝のフビライ・ハーンは朝鮮半島を治める高麗と連合で3万以上の兵を派遣する。元寇(げんこう)と呼ばれる日本本土が2度にわたり侵略を受けた事件である。対する日本は鎌倉幕府執権・北条時宗の命で集まった御家人ら約1万人。武勲をあげて所領拡大を目指した御家人らの士気も高かったが、兵力の差もさることながら、集団戦法と未知の兵器を前に日本の武士は次第に翻弄されていった。
突貫作業
元への服属を求めるフビライの国書を携えて日本に渡った使節がたびたび追い返されたため、業を煮やしたフビライは武力による日本進攻を決意。軍船を造るにあたって、文永11(1274)年1月、戦艦300隻など軍船の建造を高麗に命じている。これは当時の海外渡航用の貿易船と同じ構造で、一隻で100人程度の兵士が収容できる規模だったといい、1回目の進攻作戦でもこのような船を求めたことだろう。だが、日本に大船団を出すのに風向や潮の流れなどを考えると、建造期間は半年しかなく、元が派遣したホン・タグの指揮の下、高麗は約3万人の労働者を動員して、昼夜関係なく突貫に次ぐ突貫の作業だったという。その様子は、「疾(はや)きこと雷電のごとし。民、これに苦しむ」などと表現されている。しかし、このときの現場を監督するキム・バンギョンは、強固な船だと期限内の完成は難しいと判断。費用が安くて簡単な構造の高麗船でしのぎ、期間内に高麗が造った船は大小900隻に達する。そして総司令官のキントが着任後の10月3日、総勢3万人以上からなる兵を収容した船団は合浦(がっぽ)(現在の大韓民国馬山)から出港する。兵の3分の2はモンゴルと中国で、あとの3分の1が高麗だった。上陸許す
連合軍の船は、戦艦のほか上陸用舟艇、補給船などからなり、日本近海は巨大なマストがたなびく、おびただしい数の軍船で埋め尽くされていた。対馬、壱岐での敗戦の報に接した御家人らはただちに九州の拠点・大宰府へ向かい、その結果、九州の御家人を統括する鎮西奉行・少弐資能(しょうにすけよし)の3男、景資(かげすけ)を総大将に集まった兵は約1万人。だが、元・高麗連合軍の動きは早く、20日に主力部隊の博多上陸を許す。3方から上陸する兵力は2万人で、日本側の数はその半分に満たなかったのだが、それでも士気は高かった。ひるまない武士
当時の御家人は戦(いくさ)で手柄をあげては、恩賞として新しい土地をもらうことを誉れとしていた。このため、われ真っ先に敵陣に突っ込んで功を競うことこそが潔(いさぎよ)い戦い方だった。対する元・高麗連合軍は組織ごとに動く集団戦法だったので、先陣を切った御家人らが取り囲まれては討ちとられるといったシーンが相次いだ。さらに突然、けたたましい音とともに破裂する物体に終始、悩まされる。未知の兵器「鉄炮(てっぽう)」である。直径20センチ、重量4キロの球体が破裂してその破片が約50平方メートルに飛び散る仕組みで、殺傷能力は低かったようだが、強烈な爆音と爆風は勇猛な御家人らも腰が抜けるほどだった。コンパクトな短弓も驚異で、射程圏は約30メートルと日本の長弓に比べて6割程度だったが、その分、連射が効き、矢の先に毒が塗っていたために殺傷能力は高かった。それでも立ち向かっていったため「勇敢にして、死をみることを畏(おそ)れず」などとする元側の記述もみられる。赤ん坊を股裂き、子供を奴隷として拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ
博多を血と炎で染めた蒙古・朝鮮軍の残虐・非人道行為九州・博多から侵略する2万人にのぼる元・高麗連合軍は、兵の数の優位と鉄炮(てっぽう)なる新兵器、集団戦法などを駆使し、日本の武士団を撃破しては町を焼き払い、逃げる民間人を殺すなどやりたい放題。また、捕らえた女性をひもで数珠つなぎにし、日本の攻撃から船を守る盾(たて)にしたほか、拉致した子供を奴隷として高麗国王に献上するなど、残酷で非人道的な行為も数限りなかった。侵略される町々
文永11年10月20日、船で博多湾に集まった元・高麗連合軍の兵は早朝を期して上陸を始めた。日本側は鎌倉・北条時宗と京都へ敵襲来の知らせと援軍を求める急使を送ると、大宰府に本陣を置き、至急集まった周辺の御家人ら総勢5千数百人で待ち構えた。最初に戦闘状態に入ったのは午前10時ごろ。場所は上陸地点のひとつ、百道(ももち)原をさらに進んだ麁原(そはら)。相手はキム・バンギョン率いる高麗軍約4500人で、迎え撃つ日本側は約1300人とも。前日に元軍のホン・ダク率いる先遣隊が占拠した小高い「麁原山」周辺をめぐる攻防戦とみられるが、数で劣るのに単独で突っ込んでいく日本に対し、鉄炮などの新兵器と集団戦を展開する高麗軍にじりじり押される。ここで菊池武房らは約3キロ東の赤坂に撤退することを決め、途中に湿地帯が広がる鳥飼潟へ高麗軍を誘い込む。すると、術中にはまった高麗軍はぬかるみに足をとられて思うように進むことができず、戦闘は膠着(こうちゃく)状態に陥る。一方、元・高麗連合軍約5400人に上陸された箱崎には島津氏、少弐氏、大友氏などから1000人しか動員ができず、いきなり劣勢に立たされる。日本側の大将・少弐景資の放った矢が、元軍に2人いた副司令官のうち1人を射抜き、負傷させる戦果もあったが、博多の息浜(おきのはま)まで攻め込まれるなど、やりたい放題に暴れられる。この戦いで箱崎(筥崎)神社が焼失する。博多の中心部でも元や高麗の兵による殺害や略奪、放火などが横行したことで地は血に染まり、空は炎で真っ赤に染まったともいわれている。相次ぐ残虐行為
生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられたという記述は残酷で生々しい。ただ、山に逃れた島民をしつこく捜す元と高麗の兵士が、赤ん坊の泣き声などをたよりに見つけ出すと全員を殺害し、赤ん坊も股裂きなどにした残虐な話は数知れず。壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、生存者はわずか65人だったともいわれている。さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上するといった拉致同然の行為が高麗側の記録で確認されている。突然に消えた敵
戦いは元・高麗連合軍が優位のまま夜に入った。ここで双方とも兵を引くのだが、元・高麗連合軍は陸地に前線基地を設けることなく、全軍、博多湾に停泊していた船に引き払ってしまったのだ。しかも、一夜明けるとあれだけ湾内を埋め尽くしていた船がすべて姿を消していた。まるで忍術を使ったように影も形もなくバッと消えていたのだ。当然、今日も戦いが続くと思っていた日本の御家人らは、キツネにつままれたようにあっけにとられたことだろう。元の記録には戦ったことだけが記述されているが、高麗の記録にはこのときのいきさつが多少なりとも書かれている。それによると、船に帰投後、元の総司令官、クドゥン▽副司令官、ホン・タグ▽高麗軍司令官、キム・バンギョン-が今後の展開について意見を交わしたとされている。キムが「敵地に入って士気も上がり、必死の覚悟で戦っている」と戦闘の継続を主張したが、クドゥンは「疲弊している兵士をこれ以上使い、日増しに増える敵と戦うのは良策ではない」として撤退を決めたという。その決断の裏には、少弐景資の矢で負傷した元の副司令官の存在や、武器・食料の補給の問題もあっただろう。でも、気象や潮の流れなどの条件が重ならないと船を動かすことはできず、しかも渡航に1カ月かかった時代である。900隻の大船団が遠くの沖合にいるならまだしも、すべてが忽然(こつぜん)と海上から消えたのはミステリーとしかいいようがない。これを“神風”、つまり台風を原因と見る向きもあるが、どうやら、それだけではなかったようである。
蒙古・朝鮮連合軍900隻「消滅」
最大理由は朝鮮の「手抜き建造」か日本を力で服従させようと、文永11(1274)年10月、900隻、3万人余りの兵力で九州・博多に押し寄せた元・高麗連合軍は散々に暴れまわった揚げ句に、一夜にして視界から消えてしまう。タイムスリップか神隠しか。決死の覚悟で戦いに挑んだ日本の武士団もキツネにつままれたような感覚に襲われたことだろう。原因については“神風”、つまり天候が有力視されるが、高麗が建造したとされる船の構造にも重大な欠陥があったともいわれている。撤退は予定通り?
とはいえ、気象や風の向き、潮の流れなどいろんな条件が合わないと航海に出ることのない当時、九州・博多で優勢に戦いを進めていた元・高麗の兵と船が翌朝にはすべて消えたのはやはり謎といえる。そんな中で撤退の理由を考えるなら、戦いが長引くと元・高麗の兵が疲労する一方で、日本側の兵力は増強されることが予想されたことだろう。陸上戦を得意としてきた元にとって海上戦は未知数だけに、海に停泊中に武士の夜襲を受けて大損害を被る可能性も考えていたのかもしれない。後世に書かれた日本の歴史書には、元・高麗の船を追いかけた武士が沖合で漂流する船団を見かけたという記述があるため、夜闇にまぎれて撤退したのは間違いなさそう。京都の公家の日記にも京都が当日、悪天候に見舞われたことが書かれており、九州も悪天候ということも予想される。だが、元・高麗軍の敗因ともされてきた神風については、当時の10月20日が現在の暦では11月下旬にあたるため、時期的に台風の発生は考えにくい。このため、撤退後、海上でもたついている間に台風ほどではないにしろ、何らかの悪天候に遭った「事後の神風」だったとも考えられる。あやつり人形
戦闘、悪天候による元・高麗軍の被害はひどかったようで、失った兵は派遣時の半数に近い約1万3500人にのぼったことが、高麗の歴史書「高麗史」に書かれている。また、当時の高麗の様子についてもこのように書かれている。《働き盛りの男は船の建造にとられ、兵士の多くは戦いで負傷したほか、帰国中の暴風雨で溺死したため今では国内には老人と子供だけ。しかも日照りなどが続き稲も実らず、草や葉で飢えをしのいだ》30年間にわたる抵抗も及ばず、1259年に元の支配下に置かれると、属国としての道を歩むことになった高麗の悲哀を物語る話である。そして、フビライに日本侵略を進言したのも忠烈王だったともいわれ、王はそのときの助成も買って出たのだという。このためか、高麗全土は前線基地にされ、900隻の船の建造を押しつけられてしまう。しかも半年という期限付きで。費用も負担しなければならない状況に追い込まれている。自業自得とはこういうことをいうのだろう。
手抜きの悲劇船の建造は若い作業員を大量動員して突貫に次ぐ突貫だった。そこで思いついたのが、中国船のように底が二重構造の巨大船ではなく、規模が小さくて技術的にも簡単な高麗船でしのぐことだった。「単に兵を運ぶだけ」などという軽い発想でやった“手抜き工事”だったのだろう。確かに期限内に900隻を収めることはできたのだが、やはり船の強度に問題が出た。日本撤退後、一瞬にして船団が消えた原因は、突貫による手抜きで造られた船底の浅い高麗船が、強風と高波とそれに伴う船同士の衝突に耐えられなかった可能性が高い。さらに、鎧などの武具を身につけていたことが災いし、多くの兵士は泳ぐこともできなかった。日本が確認した元・高麗軍の座礁船は約150隻にのぼったことから、たぶん全滅に近い被害だったのだろう。元は今回の被害を教訓に頑丈な船を4千400隻建造し、7年後、今回の4倍の16万の兵をもって再び日本を攻める。一方、鎌倉幕府は元寇来襲に備えて今回、戦場となった周辺に防塁を築き、兵力を増強する。またこの戦いで焼失した筥崎(はこざき)宮が再建されると、亀山上皇が「敵國降伏」の扁額を納めるなど各地で元寇退散の機運が高まった。(園田和洋)
公式HPにも「勇者たちが挑む7日間の戦い」って書いてあるから、負け戦を百も承知の話なのか?
日蓮大聖人様の御書にも元寇の際、壱岐・対馬の人々は手に穴をあけられ、船につるされたと書いてあったような・・・。
文永の役[編集]
元・高麗連合軍の出航[編集]
1274年(文永11年・至元11年)10月3日、モンゴル人の都元帥・クドゥン(忽敦)を総司令官として、漢人の左副元帥・劉復亨と高麗人の右副元帥・洪茶丘を副将とする蒙古・漢軍[137]15,000~25,000人の主力軍と都督使・金方慶らが率いる高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航した[12]。
なお、726~900艘の軍船の構成は、大型戦艦の千料舟126[17]~300艘、上陸用快速船艇のバートル(抜都魯:モンゴル語で「勇猛なる」の意)軽疾舟300艘、補給用小船の汲水小舟300艘から成っていた[18]。
対馬侵攻[編集]
『八幡愚童訓』によると、対馬守護代・宗資国[139]は通訳を通して元軍に来着の事情を尋ねさせたところ、元軍は船から散々に矢を放ってきた[138]。そのうち7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸したため、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦し、対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗資国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、宗資国以下の対馬勢は戦死し、元軍は佐須浦を焼き払ったという[138]。
同日、元軍の襲来を伝達するため、対馬勢の小太郎・兵衛次郎(ひょうえじろう)らは対馬を脱出し、博多へ出航している[138]。
- 対馬の惨状
『高麗史』金方慶伝によると、元軍は対馬に入ると島人を多く殺害した[140]。また、高麗軍司令官・金方慶の墓碑『金方慶墓誌銘』にも「日本に討ち入りし、俘馘(捕虜)が甚だ多く越す」[141]とあり、多くの被害を島人に与えた。
この時の対馬の惨状について、日蓮宗の宗祖・日蓮は以下のような当時の伝聞を伝えている。
この文書は、文永の役の翌々年に書かれたもので、これによると元軍は上陸後、宗資国以下の対馬勢を破って、島内の民衆を殺戮、あるいは捕虜とし、捕虜とした女性の「手ヲトヲシテ」つまり手の平に穴を穿ち、これを貫き通して船壁に並べ立てた、としている。
この時代、捕虜は各種の労働力として期待されていたため、モンゴル軍による戦闘があった地域では現地の住民を捕虜として獲得し、奴婢身分となったこれらの捕虜は、戦利品として侵攻軍に参加した将兵の私有財として獲得したり、戦果としてモンゴル王侯や将兵の間で下賜や贈答、献上したりされていた[143]。
同様に元軍総司令官である都元帥・クドゥン(忽敦)は、文永の役から帰還後、捕虜とした日本人の子供男女200人を高麗国王・忠烈王とその妃であるクビライの娘の公主・クトゥルクケルミシュ(忽都魯掲里迷失)に献上している[144]。
壱岐侵攻[編集]
10月14日、対馬に続き、元軍は壱岐島の西側に上陸[145]。壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したものの圧倒的兵力差の前に敗れ、翌15日、景隆は樋詰城で自害する[145]。
『高麗史』金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ、或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」[147]と記している。
元寇 - Wikipediaより引用
壱岐・対馬はほぼ全滅のようだね。それにしても、手に穴をあけて船端に吊るすというのは、むごい。
こんなテーマのアニメがローカルとはいえ、地上波で放送されるというのは興味深い。
法華講員は必見だと思う。
いや、創価・顕正の諸君にも見てもらい、日蓮正宗に帰依してほしい。
このような他国侵逼が近づいている今こそ。
日蓮が申す事は愚なる者の申す事なれば用ひず、されども去る文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに対馬の者かためて有りしに・宗総馬尉逃ければ百姓等は男をば或は殺し或は生取にし・女をば或は取り集めて手をとをして船に結い付け・或は生け取にす・一人も助かる者なし、壱岐によせても又是くの如し、船おしよせて有りけるには奉行入道・豊前前司は逃げて落ちぬ、松浦党は数百人打たれ或は生け取にせられしかば・寄せたりける浦浦の百姓ども壱岐対馬の如し、又今度は如何が有るらん彼の国の百千万億の兵・日本国を引回らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ、北の手は先ず佐渡の島に付いて地頭・守護をば須臾に打ち殺し百姓等は北山へにげん程に或は殺され或は生け取られ或は山にして死ぬべし、抑是れ程の事は如何として起るべきぞと推すべし、前に申しつるが如く此の国の者は一人もなく三逆罪の者なり、是は梵王・帝釈・日月・四天の彼の蒙古国の大王の身に入らせ給いて責め給うなり。(一谷入道御書)