日蓮正宗のススメ

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古い仏像に心を奪われるな

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『日曜講話』第八号(平成元年5月1日発行)
古い仏像に心を奪われるな

 皆さん、お早ようございます。先週の日曜日は、なぜ他宗の神社仏閣等々に参詣をしてはいけないかというお話を申し上げました。 

 今日は、やはり、その方に関連する質問に答える話をしたいと思うのでありますが、ある方からのご質問によりますと、奈良や京都の古いお寺に見学に行かれたのでしょう。そうした古いお寺に安置されている仏像や、東京の上野の博物館等々にも、沢山の仏像が国宝として保存されております。そういう古い仏像等々の姿をみると、何となく人の心を打ち、神神しいものがあるというのです。そういうものを本尊として頼むということが、どうしていけないのかというわけであります。これもやはり大聖人様の法義の上から申し上げますと、たとえ姿、形、見た目は立派そうな、慈悲深そうな、神神しい仏像の姿はしておりましても、一切の人々を救済する本尊としての力は、絶対に有り得ないということを確信していただきたいと思うのであります。

 大聖人様は、第一に、そういう仏像等々は本尊としての力がないという上において、『曽谷殿御返事』という御書の中に、

 「日本国の一切の寺塔の仏像等、形は仏に似たれども心は仏にあらず、九界の衆生の心なり」(全一〇六〇)

ということを御指南あそばされております。つまり、その仏像等々については良く冷静に考えてみて下さい。それは、ある彫刻家が刻んだものでありましょうし、名もない絵師が画いたものでありましょうし、それが有名であれ無名であれ、迷いの一凡人にしかすぎない彫刻家や絵師達が画いたり刻んだりしたものでございます。大聖人様が、

 「日蓮が、たましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ」(全一一二四)

とご指南のように、御本仏の魂魄、仏の心をとどめられた御本尊ではない、仏像ではない。みんなそれは、迷いの一凡人が刻んだものでございますから、決して仏の魂魄、仏心をとどめたものではないということを先ず知っていただきたいと思います。

 それから二番目には、そうした仏像・本尊には、十界互具、一念三千の法門と道理、はたらきが整足していないということであります。つまり十界の衆生ことごとくを成仏せしめる原理、その功徳、法門の基本的な一番大事な道理である一念三千の法門が具わっていないということであります。

 大聖人様は『本尊抄』に、

 「一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏、木画二像の本 尊は有名無実なり」(全二四三)

とおっしゃっておられますし、「一念三千は仏の父、仏の母なるべし」という御指南もございます。

 大聖人様の仏界が御本尊様に具わっておって、そしてその御本尊を、しっかりと受持信行するところに、私達の信心と行力とが相まって、私達の九界の命と大聖人様の仏界の命が境智冥合し、その十界互具、一念三千の原理によって、私達の命も仏界へと改革することが出来るわけであります。その一念三千の法門の具わっていない仏像や絵像は、やはり草木成仏の原理も具わっておりませんから、当然仏ではない。又、成仏した姿でもないわけであります。成仏する原理が具わっていない、又、衆生を導く原理としての一念三千の法門が具わっていないという大きな欠陥があるわけであります。

 ひるがえって、大聖人様の御本尊は、

 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼陀羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(全一三三九)

と、大聖人様は『草木成仏口決』の中に御指南あそばされておられます。このように、大聖人様の御本尊様の十界の命を、十界の当体を通して、そこに十界互具、一念三千の法門が厳然として具わっているということを知っていただきたいと思うのであります。 

 その次には、御本尊の相貎において、はっきりと示されているところでありますが、いったい一閻浮提第一の本尊といわれるためには、法の本尊の法体と人の本尊の御境界とが、共に具備整足して、人法一箇の御本尊でなればならないということであります。大聖人様の御本尊には、中央に「南無妙法蓮華経」と、その法体を示され、その下には「日蓮在御判」と、大聖人様の人の本尊としての御境界が魂魄として、とどめられているわけであります。

 『御義口伝』の御指南を拝しましても、

 「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(全七六〇)

と、そこに法華経の行者と、その法の本尊の一体を示されておられます。又、

 「無作三身法号を南無妙法蓮華経と云うなり」(全七五二)

ということを言われております。無作三身とは、人の本尊、その法号とは、法体の南無妙法蓮華経の御本尊であります。そこに人法一箇の御境界を、きちっと大聖人様は教えられ、その当体を、きちっと人法一箇の上に、御本尊としてお示しになっていらっしゃるわけであります。

 仏像は仮に本尊として力があったとしても、単なる人の本尊としての相貎だけにしか過ぎないわけですから、法の本尊としての実体、その法体は伴っていないと言わなければなりません。仏像・絵像・偶像のたぐいは、姿・形は立派そうに、慈悲深そうにみえていても、本尊としての綱格は、何ら具わっていないことを良く心に置いていただきたいと思います。

 そして更に、申し上げるならば、その本尊には、いやしくも仏因仏果、仏の因行と果徳の二法が、きちんと具わっていなければ、これは御本尊とは言えないのであります。大聖人様は、また『観心本尊抄』に、

 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す、我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(全二四六)

ということを言われております。その御本尊に仏因仏果のすべてが具わっているからこそ、私達も、その御本尊を持(たも)って信心を全うするとき、その因行を積むときに、成仏という、その果徳、功徳が、きちっと現れてくるのであります。その仏の本因と本果という仏因、仏果というものが、きちっと整足していなければ、本尊とは言えないし、本当に衆生をして成仏せしめる功徳や、はたらきを持った本尊とは決して言えないのであります。

 大聖人様は、また『当体義抄』に、

 「此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり」(全五一三)

ということを御指南であります。仏因仏果が、倶時に整足しておって、始めて本当の、真実の一閻浮提第一の御本尊と申し上げることが出来るのであります。そしてその仏因仏果のもとに、合わせて三世十方の諸仏のあらゆる万行万善の功徳、その功徳の一切が、また具わっていなければならないということであります。

 大聖人様は『教行証御書』の中に、

 「此の法華経の本門の肝心、妙法連華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり。此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや」(全一二八二)

ということを言われております。このように一念三千の法門といわず、仏の魂魄といわず、仏因仏果といわず、あるいはまた、その一念三千の法理に基づくところの一切の功徳、法門のはたらき、そして三世十方の諸仏の一切の修行の功徳というものが、全部この御本尊の中に凝縮された、そういう本尊でなければ信仰する値打はない。御本尊として崇める意味はないのであります。

 逆に、大聖人様の御本尊は、そのすべてが整っておるということを、しっかりと心に置いて、この大聖人様の御本尊に勝るものは、この法界のいずこを探しても有り得ないということを深く確信していただきたいと思います。

 そういう古い、何千年昔の仏像だとか、弥勒の姿がいいだとか、何々の格好がいいからというような、その外面、その大きさや、古さや、その神神しさ、そういうものに迷わされて、そういうものに、いつのまにか信心が与同されていくというようなことは、絶対にあつてはならないのであります。ですから、美術品として、一個の美術的な作品として、美術館等々に保存し、それを歴史的な産物としておいておく、観賞するということは、いいか分かりませんけども、本尊として崇める、本尊として信ずる、本尊として行ずるという意味は、絶対に、そういう仏像・偶像や絵像のたぐいにはないのだということを、心に記していただきたいと思うのであります。もし、心が和むというならば、仏像なんかに心和むとかいうのじゃなくて、もっと景色のいい所が、いっぱいあるでしょうし、美術品というなら、もっと立派な絵や工芸品等が、他に芸術の世界だって沢山あるのですから、もっと明るい、もっと命を輝かすような、躍動するような、そういうものの方へ興味を持っていただきたいと思います。何か奈良や京都の寺の庭をみると心が和むとか、仏像をみると何となく神神しい気持ちになるとか、そういうものではなくて、もっと時事百般、いろんなところに目を向けて、そうして大いに芸術性を味わうなら、味わっていっていただきたいと思うのです。俳句だって、絵だって、音楽だって、もう興味は尽きないものが沢山あるわけでありますから、何か変な邪宗の仏像の方ばかり眼を向けるというようなことではなくて、世界のありとあらゆる文芸や芸術や自然や、いろんな世界に目を向けて、芸術的な眼を養って観賞していただきたいと思う次第であります。出来ることならば、そういう仏像等に対する執着の心を、この際きっぱりと打ち払っていただきたいということし上げまして、本日のご挨拶とさせていただきます。大変ご苦労様でございました。  

(昭和六十三年九月二十五日)