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現代諸学と仏法 序 第一原理考争 1 科学の眼・哲学の眼・宗教の眼 (3)物理的世界観での第一原理

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(3)物理的世界観での第一原理

 アインシュタインは、後期になるに従って、この天地宇宙の第一原理は<構造>である・四次元時空構造である・という風に考えた・のではないでしょうか。運動から力の概念を排除して・宇宙内の運動を時空の幾何学的構造で統一しよう・というこの試みは、実際には未完成の儘終わりましたが、ともかく、究極は構造だ・という執著心が在った・のではないでしょうか。

 湯川博士は、一般相対論について、少なく共その構造主義を疑っている事はほぼ間違い無い様です。では全面的に否定的に疑っているか・というと、そうでもなさそうです。理論の辻褄が合っている訳ですから……。

 そうしますと、一般相対論の客観的実在性・という問題はどうなりますか。

 特殊相対論ならばあれで完璧だ・と思いますが、一般相対論になると、客観的実在性・という問題は<回転運動>で説明の付かない所が出て来る・と言います。運動は相対的なものだ…という事になっています。然し回転運動は絶対性が残る・という疑いが出て来る・と言います。 回転では、一点で以って回転という事は無い訳です。少なく共面積か体積かを持たないと回転ではないでしょう。生ジュースを作るジューサーの大きいのを作って、水を入れて回転させる・とします。すると水は渦を巻きながら中が凹みます。 この<凹む>という<位置の変化>は、見掛けの上では、外からの引力や何かの力には全く左右されずに、この回転自体だけで起こる訳です。相対する相手を必要としていない訳です。

 もっとはっきりしているのは、台所の下水の流し口で見られます。廃水は人手で回転などさせなくても、勝手に回転して渦の真中が凹みます。

 そうするとこの<凹む>という変化・運動・渦の中の各部分の位置の移動、これらは自動的に起こって来るのであって、相対的なものではなく、これ自体・運動として絶対性を持っているのではないか・という疑いが出て来る・と言うのです。この問題提起が物理学界に拡がって、今尚未解決のアポリア(難問)になっている・というのが常識の様です。

 その実験は、空間や運動が・完全に相対的だ・という事は有得ない・と考えたニュートンが、絶対回転を示すもの・として指摘した思考実験・として知られているものです。

 然し<絶対>と附けてしまうと、これは運動の実体化・ではないでしょうか。客観実在性・という思考が危険なのです。勿もこれは哲学サイドからの反省なのですが……。

 客観実在性・という事自体の考察は、最早速物理学を離れて哲学が取扱う分野になります。一般相対論に対して必ずしも全面的には賛同しない人が居る・という事は、物理の内の事として、論証や・現実との対応・に関する分野の事でしょうが、問題は論証の方にではなく・実証の方に残っている様です。そこから、一般相対論の完全性・がまだ疑問の余地を残しているのでしょう。

 もう一つ、一般相対論には、次のような問題が有ります。元々マクロ世界の法則だった一般相対論が、ミクロ世界の理論に直面して発生した問題なのですが、四次元の時空連続体というのは、素粒子や場に対して、運動の領域を提供しているだけなのか・それとも時空連続体が捩れた結び目に素粒子が発生するのか・という。時空と素粒子とどちらが第一原理か・という類いの疑問が在る様です。

 してみると、何処迄も第一原理が顔を出して来る事が判るでしょう。湯川博士の<素領域>という事の提唱は、それへの解答として、時空構造と素粒子との未分の分野を提案しているのでしょう。そうなると今度は素領域が第一原理の座に着く訳で、やはり第一原理が幅を効かせている事になります。

 物理学の中で、そういう第一原理性を持った客観的実在・を追及して行く事が、一つの方向として、どの程度迄・許される・とすべきなのでしょうか。

 それは、お互い合意出来るコモンセンスの領域の中でしょう。物理学は演繹的帰納法の領域ですから、その中・という事になりましょう。その枠内のものとして仮説に迄及んで好い・と思います。

 論理というものは、多様を統一する所にその機能が有りますが、諸科学にせよ物理学にせよ、現象の多様を論理的に統一する所に客観法則が獲得される訳です。その法則が妥当する適用枠が大きいほど・その法則は有意義性を高めます。

 法則妥当の適用性がミクロの素粒子からマクロの星雲に迄及ぶ様な統一的な原理が樹立されたら、それは必ずや第一原理の座を占めるでしょうが、論理学の方から言えば、<外延>(共通の性質を持った個物群)の大きいものは<内包>(各個物に共通する性質)が薄まる・という事も在りまして、今の様な巨大な法則・というものは、案外に中身が薄いのではないか・とも予想される訳です。こうなると第一原理として相応しいかどうか・判らなくなります。

 

 

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 (中公文庫)

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